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[未発表記事]ダメ人間の系譜

『人生の土台となる読書』用に書いたけど使わなかった原稿です。僕が影響を受けたダメっぽい先人たちの話です。

そもそも僕がテレビに取材されたりするようになったのは、「京大卒ニートがシェアハウスに住んでネットを駆使して暮らしている」というのがキャッチーだったからだと思う。
ネット経由で、ごはんを奢ってくれる人を募集したり、シェアハウスに住む同居人を探したり、ほしい物リストから物を贈ってもらったり、そういうのが世間には目新しかったのだろう。「新しい生き方」みたいな感じで、いろいろなところで取り上げられた。
だけど、僕自身はそんなに新しいことをやっているつもりはなかった。まともに働きたくない、と言って、いい年してもダメな生き方をしていた人なんて、ずっと昔からいたからだ。
例えば1960年代や70年代ごろは、社会にうまく適応できないダメな人間たちは、フーテンとかヒッピーと呼ばれた。前のページで紹介した中島らもはそういう世代の人だ。僕はそういう先人たちを真似していただけだ。

ただ、本質的には昔と変わっていないけれど、昔より今のほうが生きやすくなったのだろうな、ということは思う。
1960年代や70年代くらいのダメ人間たちを見てみると、みんなかなり激しいのだ。理想の社会を作ろうとして山奥にコミューンという村を作ったりとか、ドラッグをやりまくって早死にしたりとか、資本主義社会を倒そうとして学生運動をしたりとか、熱量がすごい。僕にはそんなテンションの高さはない。もっと何もせずにだらだら寝ていたい。
そんな風に昔の人たちが激しかったのは、当時は今よりもずっと、「まともな社会」というものが強く立ちはだかっていたからだ。社会が押し付けてくるまともへの圧が強かったから、自由に生きるためにはそこまで激しく抵抗をしなければいけなかったのだ。
多分、江戸時代とか原始時代にも、あまり働きたくないと思っていたダメ人間はいた。でも当時はそんな意見は誰にも相手にされなかったし、そんなことを口にする余裕がなかったし、そんなの痕跡が残っていないだけだ。
今はネットを見れば、働きたくないとか言う人間がたくさんいる。世の中は、少しずつだけど自由で生きやすくなってきている。

僕が学生時代の90年代終わり頃に直接影響を受けたのは、僕より10歳くらい上の世代の、「だめ連」と呼ばれる集まりだった。
だめ連は、早稲田大学の同窓生だった神長恒一とぺぺ長谷川の二人が中心となって、、1992年に生まれた。
90年代の終わり頃によくメディアに取り上げられるようになり、『だめ!』『だめ連宣言!』『だめ連の「働かないで生きるには?!」』という3冊の本が出版されている。これらの著作3作は、どれもだめ連の活動の紹介をしているものだけど、『だめ連の「働かないで生きるには?!」』が対談形式が多くて一番読みやすいと思う。


だめ連には、うまく働けない人や働きたくない人や心を病んでいる人など、社会への適応が苦手な人たちが集まっていて、「働けなくてもいいじゃないか」とか「恋愛や結婚をしなくてもいいじゃないか」というメッセージを発信して、話題になっていた。

例えば就職に関して言うと、就職と正しい人生がセットになって語られることがおおいため、三〇を越えて定職にもつかずブラブラしていると「アウト!」ということになる。「人生の落伍者」にならないためには、苦しくったって、泣きたくったって、心身ともにボロボロになったって、がんばって仕事を続けなくてはならない。「考えちゃいかん」(by 私の母)のです。(「世の中はキビシい」などと言う前に、もうすこしキビシくない社会を目指したい。)
『だめ連宣言!』 P36

だめ連では、ちゃんと働いたり恋愛や結婚をしていないと世間から下に見られてしまうという問題のことを、「ハク」「うだつ」問題と呼んでいて(「ハクをつける」「うだつを上げる」などから)、くだらない「ハク」や「うだつ」に縛られるのをやめて自分らしく生きよう、と呼びかけていた。
ここまで読んで、「働けなくてもいいじゃないか」とか「恋愛や結婚をしなくてもいいじゃないか」という意見は、そこまで珍しくない、と思った人がいるかもしれない。
でもそれは今の時代だからそう感じてしまうのだ。90年代の頃は今よりもずっと、就職や恋愛や結婚に対する世間のプレッシャーが大きかったのだ。
だから当時、だめ連の主張はとてもインパクトがあった。「そんなこと堂々と言っていいんだ」という感動があった。僕らはだめ連が切り開いたあとの時代に生きているのだ。

だめ連の本を読むと、さまざまなだめな人たちが仕事、家族、お金、住居、メンタル、その他いろいろの人生の悩みを語っている。
そしてそういう人たちが集まって、宴会をしたりトークイベントをしたりミニコミを作ったりといろいろな活動をしていて、楽しそうだ。
だめ連の主な目的は、「だめをこじらせないために、だめな人間同士で集まって交流をする」というところにある。

こんな具合に、だめをこじらせてしまった人たちはけっこういるのではないかと思うのですが、得てしてだめな人というのは、独りで部屋に閉じこもりがちになります。だからこそ、だめな人ほど集うことが重要なのではないでしょうか?

正直言ってだめ連は、だめをこじらせた人に対して、「解決策」というようなものはあまりありませんし、そのような関係を期待されても困ります。だめ連が言うことは「"交流"しましょう。"トーク"しましょう」ということぐらいなのです。
 だめを手懸かりにトークしていくなかで、人生や社会に喰い込んでいく。そんなふうに人と議論を交わしながら、あれやこれやと一緒に考えたり悩んだりしていきながら生きていく姿勢こそが、「解決のない解決法」なのかもしれません。
『だめ連宣言』 P3

だめな人間が一人でいると、世間や家族からの働けというプレッシャーや結婚しろというプレッシャーに押しつぶされて、どんどん落ち込んでしまいがちだ。
だけど、同じような仲間たち(だめ連の用語でいうと「平日昼間」の人たち)と交流をしていると、はっきりした解決策はなくても、「こういうことで悩んでいるのは自分だけじゃないんだ」とか「こんな風に生きていてもいいのかもしれない」と思えるようになって、気持ちがラクになる。だめ連はそのための集団なのだ。
一人でいるとどうしようもない袋小路に思えることも、人に話すと状況を少し冷静に見れるようになって気分が楽になる。そのために仲間や友達というものは必要だ。
「ダメな人間でも集まると生きやすくなる」ということを、僕はだめ連から学んだ。僕がその後シェアハウスを始めたことにもその考え方が反映されている。

今はネットがあるので、知らない人とつながるのはわりと簡単になった。
だけど、だめ連が始まった90年代というのはまだインターネットが一般化していなかった時代だ。
ネットがない時代に彼らがどういう風に交流していたかというと、時間を決めて定期的に駅前とかに集まって、そこでひたすらトークをしていたらしい。
人の募集方法としては、電話番号を書いただめ連のビラを作って、それを電柱に貼ったりしていたそうだ。
あと、交流したいけど部屋を出るのがつらい人のために、みんなの電話番号の一覧表を作って共有して、お互いに電話をかけ合っておしゃべりをする「電話ネット」というネットワークがあったらしい。
90年代前半というと、ネットはおろか、携帯電話すらまだ普及していない時代だ。その時代のことを思うと、気軽にネットを使える今は恵まれた時代だなと思う。

学生時代の頃、だめ連の神長さんやぺぺさんに会ってちょっとだけ話をしたことがある。僕の大学の文化祭に遊びに来ていたのだ。だめ連のメンバーがたまり場としている東京の「あかね」という店にも何度か行った。
だめ連にはすごくシンパシーを感じていたけれど、ちょっと自分とはノリが違うなと思った点があった。それは、だめ連の人たちは酒を飲んでしゃべるのが好き、という点だった(だめ連用語では「交流」と呼ぶ)。
それはもちろん悪いことではない。僕が個人的に、しゃべるより読み書きのほうが好きだし、お酒もそんなに得意じゃない、というだけだ。
そうした違いを自覚したところから、のちに僕が作ったシェアハウスは、インターネットで集めた人間たちがみんなもくもくとパソコンに向かい合っているというものになった。
しゃべるのがそんなに得意じゃない僕は、文字コミュニケーションができるネットがなければたくさん知り合いを作ることはできなかっただろう。インターネットがあってよかった。僕が子どもの頃はネットはまだ一般的じゃなかったけれど、大学生のときに一気に広がったので、世代的にぎりぎり間に合ったな、という感じがある。
今もネットを見ると、「働きたくない」とか「自由に生きたい」と言っている人たちがいっぱいいる。ネットがあればそういったことを簡単に口にできるし、同じような考えの仲間も探すことができる。
そういう光景を見るたびに僕は、いい時代になったな、と思うのだった。

 * * * * *

だめ連のメンバーは今でもゆるく活動しているようだ。

また、だめ連の流れの一部は、高円寺の素人の乱にも受け継がれている。

ペペ長谷川さんはがんになってしまったらしく、心配ではある……。

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