勇気と献身を備えるサムではなく 無能なフロドが主人公である理由-『ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)』

『ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)』の主人公フロドについて。

ホビットの青年であるフロド・バギンズは、冥王サウロンの指輪を破壊するために選ばれ、従者のサムとともにモルドールの火の山へ旅をすることになります。

このフロド、物語の主人公であるにも関わらず、インターネットでやたらと「無能」と呼ばれています。Yahoo知恵袋にも「フロドは無能。サムこそが主人公では?」と問いかける質問も散見される状況。

確かに、映画を見ていると従者であるサムの献身と勇気がクローズアップされ、相対的にどんどんフロドが役に立たない人物に見えてくるのも事実です。指輪の魔力で心が弱っていたとは言え、ゴラム(原作日本語訳ではゴクリ)に情けをかけたばっかりに、見え見えの罠にハマりどんどん窮地に陥るフロド。途中、親身に助けてくれるサムを自分の元から追放。そのサムに命を救われ、最後には火口までほとんど担いで運んでもらうことになってしまいます。何から何までサムがお膳立てしてくれたにもかかわらず、フロドは最後の最後で「指輪は僕の物だ」と宣言して使命を放棄する始末。サムの苦労をすべて無駄にしてしまい兼ねない行動の数々に、正直目も当てられないと感じたものです。

前述のような質問や揶揄がインターネットで飛び交うのも否めません。

しかしやはりこの物語の主人公は間違いなくフロドです。彼は何を持って主人公となっているのでしょうか。勇気?友情?強い精神力?そうではありません。他の誰よりも深い深い「情け」を持っていることこそが、彼が主人公足り得る理由なのです。

『ロード・オブ・ザ・リング』のクライマックスは、ゴラムが火口でのやり取り乱入してくることによって急転。最後にはゴラムが指輪ごと火口に落ちることによって決着し、冥王サウロンは滅亡します。つまり端的に言えば、フロドがゴラムに情けをかけたことで、指輪の破壊と冥王打倒に成功した、ということになります。「風が吹けば桶屋が儲かる」レベルの話のように見えますが、これが唯一サウロンを倒せる方法だったのだと思います。

おそらく指輪を自力で火口に投げ込める人物は中つ国に存在しません。指輪の魔力は非常に強く、長く所有していればいるほど指輪を手放せなくなります。利他的な行動力にあふれるサムにもできないでしょうし、アラゴルンを始めとする人間には当然できません。(そもそも人間は中つ国では特に欲深い生き物。人間の中では最も高潔なアラゴルンもエルフなど他の種族と比べると、誘惑に弱い方に属すると思われます。)ガンダルフは自身も語っていたように指輪の強大な力を善のために使おうとして、却って道を踏み外すことなるでしょう。

普通の方法では指輪を破壊することはできないません。つまり、結果的にゴラムに情けをかけることのできたフロドだけが、指輪を破壊することのできる人物だったということになるのです。

『ロード・オブ・ザ・リング』の世界には「人」の持つ素晴らしい力や可能性がたくさんでてきます。旅の仲間一行が見せる勇気や友情、ガンダルフの持つ知恵や知識、アラゴルンとアルウェンの愛はもちろん、セオデン王と娘エオウィンの親子愛や、サムが見せる献身ももちろんその一つ。

しかし、原作者のトールキンがこの物語を通じて最も伝えたかったのは、それら様々な力に勝るものは「情け」であるということ。「情け」こそが冥王すら倒すことができる力になり得るのだという、非常にキリスト教的な概念なのです。

「ゴラムが指輪ごと火口に落ちたのは偶然じゃん」と言う意見もわかります。しかし、この『ロード・オブ・ザ・リング』はファンタジーであると同時に寓話でもあります。ただの冒険活劇ではなく、読む人に何かしらの教示を与えるための物語です。トールキンの教えは、「自分の敵、自分を陥れようとする相手にすら深い情けをかけよ。それは回り回って自分を助けることになるのだ」といったところでしょう。

そのテーマを伝えようと思えば、やはり主人公はアラゴルンでもサムでもなく、フロドでしかありえないのです。

フロドは役たたずに見えますが、決してそうではありません。自分の敵であり、自分を罠にはめようとするゴラムにあそこまで情けをかけることのできる人がいるでしょうか。ゴラムの命を守り、あろうことか従者として同行させることのできる人はいるでしょうか。誰にもできないことを平然とやってのけるからこそ、フロドは主人公であり、彼の持つ深い慈悲の心が、世界に平和をもたらす力になったのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(余談)ちなみに、映画には原作に無いシーンがいくつか追加されています。その中に「ゴラムに騙されてサムを追放する」という展開と、「火口で指輪ごと指を食いちぎられたあとに、ゴラムに掴みかかる」という展開があります。この2つはトールキンの考えを損なう非常に大きな改変です。

サムを追放してしまえば、フロドは本当の意味で情け深い人物だとは言えなくなります。同様に指輪を奪われたとはいえ、ゴラムに掴みかかってしまうこともまた情けの考えに反します。映画版は、トールキンの意思を本当に伝えることができる作品にはなっていないのです。

とは言え、あの小説を完全再現するとあまりにも単調な場面や、抑揚に欠けるシーンが続くことになります。「サムの追放シーン」などの追加は映画を娯楽として楽しませるための、ピーター・ジャクソンの苦渋の決断だったのでしょう。あくまで映画は物語を楽しむために鑑賞し、トールキンが本当に伝えようとしたテーマは原作で読み取る、というのが『ロード・オブ・ザ・リング』の真意を汲み取る楽しみ方かなと思います。