生死を分ける「ま(間)」 その刹那(瞬間)(5) 父の場合―奇跡の間(ま)Ⅲ

今日は12月8日

80年前に真珠湾攻撃、太平洋戦争が勃発した日

大本営発表を聴いた父は「何でアメリカと、勝てるわけがない」と思った

次は太平洋戦争、軍艦で南方の島に送られた。
日本の軍隊の計画はいい加減で、予定のトラック島に着いたところ定員オーバーでこんなに沢山の兵隊の面倒は見られないと、父の所属部隊は急遽もっと南のクサエ島(クサイエ)(小学生の時の地球儀には載っていた)に廻された、と聞いている。
潜水艦にもやられずやっとの思いで着いたと思ったら、さらに遠方へ、潜水艦の恐怖再びであったが、無事にクサエ島に上陸できた。
小学生のころ、私の田舎である、北陸の街でアメリカの戦争映画を見た時に、偶然にも、この島の名前が出てきた。「目的地、クサエ、ここに日本軍の潜水艦秘密基地がある」へーッと思いました。

人間(じんかん)塞翁が馬の如し                   大怪我のお陰で、二年間を新宿の陸軍病院で過ごした。
この間に多くの同僚が中国で戦死したことは想像に難くない。
傷の快癒とともに社会復帰し結婚し、太平洋戦争にも駆り出されたが、潜水艦にもやられず、日本の連合艦隊と航空基地を奇襲した米軍大空襲のトラック島を免れ、クサエ島で飢えに苦しみ、栄養失調と、マラリア、アメーバー赤痢などで死んで行く戦友が多い中でしぶとく生き残り、二度の出征で一度も銃を撃たずに帰ってきた。
(クサエ島では、父のいた島では空襲は無く、敵機は素通りと言っていたが、他の部隊にいた人は、空襲がいくらかあったように書いている。)
また、太平洋戦争の末期には、第二次上海戦に生き残った兵士は南京で、問題の事件の中にいて、中国戦で生き残った者は経験豊かな精兵として、多くは玉砕の島に送られたようだ。
中国には若い兵士や、予備役の兵士の方が多く、関東軍も弱体化し、終戦時の悲劇と、ソ連抑留の悲劇を生んだように思われてならない。

砲弾の破片は若い筋肉や血管に刺激を与え苦しんだようだが、事業を起こし、人生お釣りのようだと言っていたが、好きなように生きて83歳で逝った。
破片から自由になったのは焼き場だったろう。
細かい金属があり、顎の骨にも入っている様子が、変色具合で分かった。
正に筋金入りと言えるか。
骨が特別太い人で、大きな骨壺に収まり切れないほどであった。
早いもので、今年12月22日で23回忌、11月が命日の母が13回忌、法要は一緒に済ませた。両親の死や葬儀には涙しなかったが、23回忌法要で漸く、父であったと実感し、込み上げるものがあった。

父が戦争で死ななかったのは、人智ではどうにもならない奇跡の間(ま)がああったからではないだろうか。
父の人生最大の幸運は、鉄砲玉を一発も撃つ「ま(間)」が無かった事であった。
そしてそのお陰で、好まない人殺しをせずに済んだ事であった、ことだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?