聖霊の種をまく

わたしが今のような考えかたや活動を始めてからかれこれ14年以上経つ、14年、13年まえのその当時の活動を記録したブログやホームページが期限切れで観れなくなったりパソコンが変わったときに保存していなかったりして、ほとんど何も残ってないので、自分がその当時どんな考えを持ち海を漕ぎながら行動していたのかは漠然としか覚えていないけども、、、

12年前の2011年、東日本大震災が起こったあとに『海からの巡礼の旅』という熊本県水俣市の湯の児温泉から福島第一原発の北にある双葉海岸を目指して漕いだときの海の表情、津々浦々、上陸して野宿した砂浜の状態は記憶にはっきりと残っている。その行く先々で出会った人たちの顔も覚えている。

そして今現在もその『海からの巡礼の旅』の道なかばなのだ。

12年前の11月に葉山に ”上陸” してからというもの、わたしは自分自身が福島第一原発まで漕いでいくことができる人間になるのを待っている、そんな修行の身なのだ。

福島までの東北地方の太平洋沿岸を、津波で海にのまれた人達の霊魂を癒やし、

祖先の霊につながり津波の記憶が未だに残り海に誰も足をむけなくなった哀しい沿岸の砂浜を清め、

復興と住民の命を守るという名のもとつくられた巨大なコンクルートの防潮堤で陸と海を遮断してしまったさびしすぎる砂浜と海に聖霊の種をまきながら、、

そして放射能を含む汚染水にまみれ傷ついた海と砂浜の浄化をうながす手助けをしながら、

それらのネガティブなエネルギーに負けない聖霊にあふれる祈りを捧げながら漕いでいけるだけの自分の精神性を高めるため、そして肉体的にも強靭な人間になるために葉山で海と砂浜に祈りを捧げ漕ぎ続けている。

12年まえのその時の気もちを忘れないように毎日海に向き合っているつもりだ。

そのときを境に私たちは海に出る前には必ず、わたしたちを照らし導いてくれるお日道様への感謝を手拍子とともに天地自然に呼びかけ詠い、海に畏敬の念を伝えながら皆で手をつなぎ和をつくって祈りを捧げることを習慣としている。
海という人の力がまったく及ばない大いなる存在が司る神聖な領域にちっぽけなわたしたちが漕ぎいでるのだということを皆が再認識するためにも天地自然に感謝と愛の祈りをささげるということを始めたのだった。

わたしが一人で海に出るときも、裸になり素肌で母なる地球とつながり、大自然のマナを感じ吸収し、砂浜で祈りをささげながら時空を超えて先人たちに語りかけ宇宙とチャネリングするという時間を大切にしているのだ。
  


2007年にホクレアが日本にやってきたその景色は今でも昨日のように鮮明に覚えている。

ホクレアがハワイに帰ったあとに1年以上かけて身の回りを少しづつ整理しながらも私は悩み続けた。

わたしたちは、
これから将来も、今のような生き方をつづけていいのだろうか?


自問自答の月日が流れた。。

会社をたたんで、家を売り、車も売り、借金を返し、葉山という縁も知り合いもない場所に家族4人と愛犬とで移り住んだのだのが約14、5年前だ。
それまで住んでいた茅ヶ崎にくらべて、その当時は人も少なく、なによりも海がきれい。山と海と空の表情が毎日変化に富み魅力的というその理由だけでじゅうぶんだった。

そしてすぐに海に近い間口が狭いけども空き地が付いた小さな平屋の古民家に出会った。


カリフォルニアのオレンジカウンティーというパシフィックコーストハイウェイが走るビーチカルチャー、サーフカルチャー発祥の街に住み、温暖で、どこまでも青い空が続くような、そんな明るく自由で開放的な環境で物質的に豊かにすくすくと育った息子2人にとっては、それこそ毎日が梅雨の長雨のような晴天のへきれきだったと思うけど、
もう子育ても終わりを迎えていて、男親の役目はあとは何も言わず、やりたいことをやっている姿を見せるだけという時期に来ていた。そして2人とも学資ローンで大学に通い返済しながらも、自分がやりたいことを模索しもがき悩みながらも『自立自興』への道を確実に歩み始めていたときだった。

わたしが聖霊の種をまきながら海を漕ぎ続けてさえいれば、彼らも必ず祝福され自分の道をひた走ることができると信じていた。


それまでの自分が当然と思っていた一般的な物質主義的で経済至上主義的な価値観で生きる(その当時はそういうふうな生き方を自分がしていると自覚さえしていなかったけど)生き方、

必需品とだれもが思っている贅沢な物に囲まれ、

世俗にまみれ、常識にコントロールされながら流行を追うという生きかたに少しずつ別れを告げて、

地球とつながり海の声に耳をかたむけながら生きるという生き方に少しづつ変えていった。

はじめのころは地球とつながるなんて表現のしかたはまだできなくて、ハワイのホクレアにインスパイアされて、、、
古代の日本海洋民族の魂を現在に蘇らせよう!といいながら活動をしていたのだった。

競技スポーツともレクレーションとも違う、前例や見本がないので、何をどうやればいいのか、手さぐり状態で毎日が不安の連続だった。経済的にも苦しかった。
ただただ海にでて聖霊の種をまきながら漕ぐだけだったけども、なぜか不思議に心の安らぎは感じていた。

すべてが導かれるままに、見えないけども大いなる存在、聖霊がいつも水先案内してくれてる感じで日々過ごす毎日だった。

伊豆大島からSUPで漕いだり、八丈島からOC-1で漕いだりして、もがいていた自分がいた。少しでも同じ志をもつ仲間を増やし、いつかは小笠原諸島から内地まで漕ごうという計画をたてた

内地とは小笠原や伊豆諸島など島に住む人達が言うことばで東京や日本列島の本島のことなんだけど、地理的に小笠原諸島、伊豆諸島から一番近い陸地が伊豆半島の先端にあるのが南伊豆なので、それからというもの少しでも1000キロ南方の小笠原諸島(僕はBonin Islands という)のエネルギーを近くに感じ、自分の心の目でBonin(ボニン)の島影を見ることができるようになるんじゃないかと願い、南伊豆の弓ヶ浜に今でも頻繁に通っている。妻と愛犬を連れて3年間移住したこともある。そして新島にも漕いで渡って行った流れで1年間移住した。

伊豆諸島の島々を何度も漕いでつなぎながら、

古代の人がどんな気持ちでこの黒潮が流れる過酷な海を漕いで渡ったのだろう。

どんな気持ちで島にたどり着き、島民の出迎えられ、そしてまた新天地を目指して漕ぎ出していったのだろう?

海のもくずと消えた無数の海の民の魂を感じたい、

砂浜に今ものこるクプナ(先人たちの魂)と語り合いたい、

太平洋を皆で一つになり漕いで愛を伝えることで海を浄化し、そして調和のエネルギーで母なる地球を癒やしたい、

もっともっと太古にこの地球上に存在した海洋民族、人というよりもイルカやクジラに近い能力を持ち、環太平洋の人たちだけでなく世界中の人種と意識の世界でつながりながら海流に乗り、風に漂い、経済活動や交易のためではなく、だたただこの母なる地球のために、地球の調和とバランスを維持する目的で海を渡ったという海の民の叡智を授かりたいと、

そう願い祈りながら、、、

わたしたちの共通の故郷であり唯一無二の星、母なる地球に必要なことと感じたから、


そして今はヒロシマ、ナガサキをヴァアで漕いでつなぎたいという同じ価値観をもつ仲間を探している。

海をこよなく愛し、自然という家族の一員となり、母なる地球とつながりたいと心から願う仲間を探している。

愛と調和をつたえながら海を漕ぎ、聖霊の種をまきながら、、、
目には見えない大いなる存在の声を聞き自然に導かれた砂浜に上陸して漕ぎ進むのだ。

何かを達成するとか成功するとかではなく、
この世で与えられた使命をはたすことが何よりも重要なのだ。


速くて便利で効率的なことが美徳とされている今の時代、太古の人のようにヴァアを漕いで海を渡るという行為そのものがその対極にあたる。

合理的な思考だけではつかみきれない思考の領域にそんざいしている。

そのうえできる限り人の都合や現代社会の常識や娯楽的感覚に合わせないで、クプナの意思や天の声に耳をかたむけよう従おうとするあまり、私の判断や計画が合理的じゃなかったり、効率的でなかったり、回り道に見えたり、ある時には無謀にみえたりすることもあるけども、
それはそのよううな判断や選択がきっと魂の領域の価値観として必要だからそういうかたちで与えられているんだとわかってきた。

たんに還暦ジジイがボケている、、と思われても仕方がないけどね。

仏教で『慈悲』

キリスト教で『愛』

ネイティヴのハワイアンがいう『アロハ』というのかな、、、

そんな人間の中にあり眠っている、純粋無垢な霊魂の炎をともすために、

神の次元の意識を共有するために、

わたしは聖霊の種をまきながら海にでるのだ。

  


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