ヒロシマ・ナガサキ DAY2

写真とかはインスタやFace Book での投稿をみてね、
祈りの航海を終え、まだまだボートした感覚から抜けきれないけども、、少しづつこの次元にアジャストさせながら、
少しづつ記録のために、投稿した文章にあらたに感想なども加えて書き綴っていきたいと思う、


3月30日

土曜日はまさに慰霊巡礼の祈りの航海でした

江田島長瀬海岸舟出
この浜がある集落では集中的な爆撃で多くの村民が亡くなりました

海岸の近くに干潮になったら顔をだす岩礁が残っているけども、それはもともとは陸続きの小山だった場所で米軍の激しい空爆によって粉々に破壊されてしまい小さな岩礁だけがいま残っているのだそうだ、
昨日は念入りに、アンクルも祖霊に祈りを捧げていたように感じる
わたしも献水の儀式で多くの霊魂を鎮めたつもりだけど、この広島湾に向けて大きな受け入れ口のように開いたこの海岸からのベールがかかったような海の輝きが哀しすぎた、ここからみえる原爆投下の瞬間はどんな感じだったのだろう、、、


似島(にたじま)
広島で第二の聖地と言っても過言ではない島、原爆で亡くなった身元不明の多くの魂が眠っている島、富士山に似た山の形から似島という名がついたらしい、

終戦後ここには検疫所がつくられた、原爆でなくなった身元不明の遺骨だけでなく、南の島々でなくなった身元不明の遺骨も埋葬されている、

長浜からまっすぐと爆心地方向に向けて、江田島、倉橋島、呉、のみんなと漕ぎ進んだところにこの島が現れる

それぞれの親や親戚、知り合いの哀しいストーリーを胸に秘めながらの航海

哀しすぎるけども、海は穏やかですべてを愛でうけとめてくれていた、優しく包みこんでくれていた、

キラキラろ無数の魂が79年のときをこえて、海面に現れているようだった、

みんながPilialohaの出現を心待ちにしていたように感じた、

『安らかに眠ってください
過ちは繰り返しませんから』

と、こころで強く念じるように語りかけながら、
一つ一つの魂を撫でながら海を漕ぎ続けた、

そんな一日がスタートした



似島で葉山から来た子どもたちmoana Keiki の母親たちと交代する

子どもたちが今回のヒロシマ、ナガサキ 祈りの航海の主役

でもこのこらがこのまま”希望の光”としてすくすくと、母なる地球の調和と愛のために育つかは、親次第、、、、


途中広島湾の海上で何度も何度も手をつなぎ、静かに祈りを捧げた🙏 

自然とみんなの頬に涙がながれるのを後ろにいながらも感じつづけた、

すごい癒やしのマナがPilialoha から発せられていた、広島湾が、瀬戸内海が

癒やされていくのを感じた

One Love

ひとつの愛でつながっていく



観音マリーナ上陸
広島の川でSUPを漕いでる地元の人たちに交代、子どもたちにどこで交代するのがいいのか丁寧に教えてくれる、

いつもこの川で漕ぎ続けている人たちの精神はさすがに強靭だ
まったく動じないで笑顔でおしゃべりしながら漕ぎ続ける姿は頼もしかった


途中子供たちだけに交代
雁木と呼ばれる船着き場で荷物を積み下ろしするための階段で交代

いたるところにあって、牡蠣殻など定期的に取り除いているのだろう、どこにいっても雁木がスッキリ綺麗に清掃されている、すごいことだと思う
水の都、広島、の誇りを感じた

がんぎという言葉は聞いたことあったけど、こんなに身近に感じたのは始めてだった、

こんなのが長崎の浦上川にもあるべきだと思う、

浦上川はひどい状態だった、まったく清掃もなにもされていない、だれもまったく利用しないのか、ただビルや道路に囲まれたただのドブ川だった、

あれじゃ亡くなった人たちの魂も癒やされないと感じた


原爆ドーム前まで約4キロほど子どもたちとアンクルが一番シートに座り漕ぐ
子どもたちはどんな気持ちで漕いでるのだろう?
原爆ドームが見えてきた、

子どもたちは昨日原爆資料会にみんなで行ってるので、この場所で何が起こったのか知っているはずだ、はしゃぎもせづ黙々と漕ぎ続けている姿が印象的だった、アンクルは大きな声でチャントを唱え子供たちが復唱する
わたしは感極まって、なんども涙を流す、
祈りの航海はまだ始まったばかりなのに、

でもこの時の湧き出るようなエネルギーがあったからこそ、この先800キロまったく何にもブレないで長崎までの海路をひたすら無心にこぎ続けることができたんだとわたしは今にして思うのだ

この場で79年まえに一瞬にして失命した何の罪もない人達の無念さ、
数日間か数時間か数分間、地獄のような環境の中生きながらえ、悲しみと痛みと乾きと、人間がこれほどまでの辛さを味わうことはないほど、こどばで表現できないほどの悲惨さに苦しみ悶えつづけた同胞たちの思いや過酷さを思うと、わたしはどうしようもない愚痴も、弱音も、哀しみも、苦しみの言葉一言さえも言えない、そして今まで以上に自分のクレアナ(使命)をまっとうしなければという思いが強まったのだ


爆心地近くの広い雁木、河岸で平和の祈りと献水セレモニー
地元のSUPの人たちが準備してくれて、素晴らしいセレモニーを行うことができた、
終始、川の流れでPilialoha が動かないように、まだ冷たい川の水に手足浸しながら支え持ちつづけてくれたのだった

献水のセレモニーは、子供たちに紙コップに平和のメッセージを書いてもらい、そのコップに広島の山の湧き水で”献水の滝”と今は呼ばれている清水を注いで、思い思いに願い念じながらそのコップに注がれた清水を川に流したのだった、

献水についてはこの航海をスタートする数週間まえにNote に投稿しています
知りたい人は読んでみてください、

アンクルはいつになく響く声でチャントを唱えオリを唱え続けていた

アンクルの声が川に原爆ドームに平和公園に高々と共鳴していた、数十万という魂に語りかけているようだった、

アンクルもわたしも、顔は涙でグチャグチャだった、

隣の雁木でミニライブをやってたみたいで、マイクを使い歌っていたけども、アンクルの生の声のほうが確実に響いていたのには驚きだった


地元の子供たちと葉山からの子供達が一つになり川を下る8キロの道のり、
完全にわたしは時空を超えて漕いでいた、川下りのことは何も覚えていない

観音マリーナ   
2007年ホクレアも寄港したマリーナだ、

アンクルkimokeoのお父さんの弟はホクレアの初代キャプテンKAWIKA KAPAHULEHUA 日本ではあまり知られていないけど叡智の人だ

マリーナの館長のはからいで、館内に展示していたナイノアとホクレアの写真を見に行く、

アンクルはすごく嬉しそう、

今回の祈りのボヤージングは2007年にホクレアが辿った海路をそのまま同じマナで逆行するように進んだ、いたるところにホクレアのマナを感じる、とアンクルは何度も言っていた


宮島の包が浦に夕方上陸
オピオ(中学生)中心のクルーで一気に漕ぐ
たくさんの観光船やタンカーを横目に、上げ潮に乗り1時間ほどで漕ぎ切る

陸路で車で伴走しフェリーを使って宮島まで来る人たちよりもずいぶん早くに到着、

厳島神社から遠く離れた砂浜で何もないところだった、

出迎えたの鹿さんだけだった

オピオたちは鹿をおいかけて山の中へ

とにかく島のマナがすごいらしい、山が、おそらく弥山のことだと思う

マナがすごい島でアンクルビックリ🫢

江田島のオハナたち、

車でずっとサポートしてくれたダイブママ、

原爆ドーム近くを拠点に活動しているSUPの皆様、

サポート🤙KOKUA💰

大変ありがとうございまさした😊


DAY 2 番外編

ハワイアンのカフナとして全力でマナをこめてプレッシングをしたあとに、アンクルはわたしに向かってこの時こう言ってハワイからプレゼントとしてこの日のために用意していたパドルをわたしに渡しながらこう言ったのだ、

『自分はハワイアンではあるけれど、アメリカ国民でもある

アメリカ国民として心から謝罪したい、ごめんなさい🙇‍♀️、

でも、わたしたちハワイアンは日本人と共にある、
日本人を尊敬し感謝している

わたしたちは太平洋に共に生きる兄弟姉妹だ🤙

自然を愛でる日本人の精神性を重んじて文化を大切にして生きてください』


あまりにも突然のことで
わたしは合泣して しまいました、

ありがとうアンクル🤙

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