自然の砂浜を蘇らせる

私達人類の共通の故郷、母なる地球の生命誕生の場所が海だということは子供でも誰でも知っているだろう。

でもその生命の始まりの始まりが砂浜と海の境、波打ち際だということを知っている人は少ないと思う。

海の波が砂浜に打ち寄せるリズムは1分間に18回、人の呼吸も18回、

静かに波がリズミカルに打ち寄せる白い泡状のスープの中で最初の命は誕生した。

それほど波が打ち寄せる自然の砂浜は神聖で波動が高い場所なのだ。

気の流れという観点からも、砂浜は神聖な場所で、山のエネルギーが谷を通り自然の砂浜を通って海に流れて行く。もちろんその反対に海から山への気の流れは大切で、海のエネルギーは山を健康に育み豊かにする。科学的にみても、山から海へと雨水が流れ、自然の砂浜があれば山の養分を含んだ湧き水が蒸発することなく地中を通ってそのまま海に流れていき、海産物や魚たちを健康に育み海を豊かにしてくれるのだ。

山のエネルギーと海のエネルギーが出あう場所、
それが自然の砂浜なのだ。

だから自然の砂浜は生命に満ち溢れ、波動が高く神聖なのだ。

地球の生態系にとって海と砂浜の関係は切っても切れないほどに親密で深い関係なのだ。
 
自然の砂浜はすべての生き物にとって正にオアシスだったのだ。

そして、それは人類にとっても同じこと、特に日本のように海からすぐ崖になるような海岸線が連なる、山が海に落ち込むように平地がない岩だらけの沿岸にぽっかりと輝くように見える砂浜や入り江は、昔の日本人にとってはオアシスだったのだ。

数千年、数万年前からずっとつい最近までそういう環境が日本にはあった。

僕が子供の頃の昭和40年代ころまでは長崎や西海の沿岸がそうだったと記憶する。美しい遠浅の浜辺までおじいちゃんに連れられて小さな和船に乗って海水浴に行ったことを今でも覚えている。

モータリゼーションが始まり車が交通手段となるまで日本列島の道は狭く細かった。100年前まで土地が険しく草木に覆われ森が深い日本の道は獣道のように細かったのだ。
今も毎月の様に通う伊豆半島の先っぽ南伊豆、そして西伊豆の海岸線を思い浮かべればわかると思う。起伏の多い山は高低差が半端じゃない。カーブが多く危険な道ばかりだった。現在でも道路を車で移動するよりもカヌーを漕いで移動したほうが次の浜辺に到着する。昭和40年代まで伊豆半島の人たちは船を交通の手段とし海の道を頻繁に利用していたらしい。
昔、海の道を利用する水運、海運、漁業の拠点になったのが、浦や入り江に佇む生命の源でもある自然の砂浜だった。昔の舟とは和船だったり、さらにさかのぼって昔は手漕ぎの丸木舟、カヌーだったので、今のヨットの様に海底に張り出すようなキールもなければ、漁船の様に固定されたエンジンも舵もなかったので、そのまま砂浜に上陸し、砂浜に丸木舟を置いて必要に応じて漕いで海を渡っていたのだった。砂浜には人が集まり物々交換し情報も交換するそんな場所だった。今で言う駅前のようにすべてが揃い、多くの人が集う場所だったのだ。
唯一今の駅前と大きく違うのは、人間らしい、すべての生き物や自然に優しいリズムと時間がそこには存在した。

大自然と共生している神聖な場所だったのだ。

海と陸の生き物が優しく寄り添いながら生きるそんな場所に人間も一緒に生き生きと生活していたのだ。

人がこの地球に誕生してからつい最近まで、そんな長い年月を人間は自然の砂浜を中心にして生きていたのだ。

わかりやすく例えると、人類がこの地球上に誕生して今までを1年365日に例えると、今の文化的で便利な社会生活が出現したのは、12月31日大晦日の23時59分をわずかに過ぎた頃だということだ。そのくらい私たちの祖先は大自然と共生した生き方をしていたのだ。それも自然の砂浜がある場所を中心に海とともに生きていたのだ。

そんな太古から続く悠久の時代を一変させたのがエンジン付きのガソリンで動く船の出現だった。
そして大量に魚を捕獲し流通し売りさばく、海を人間だけのための資源として考える仕組み、水産業の発展だった。

資本主義的な自然環境をかえりみない利己主義の価値観は、日本の高度成長期の流れとともに急速にエスカレートしていった。

自然の美しい砂浜が土建屋と漁業関係者の餌食となり、コンクリートで覆われ護岸工事されてことごとく港が作られていった。日本中の浦や津とよばれた美しい聖なる場所が無残にも埋め立てられ、そして海にはコンクリートで作られた1個で数百万と言われるテトラが無数に投入されていった。

日本各地で海の気が陸に届かなくなってしまった。

大海の純粋な波のエネルギーが砂浜に届かなくなってしまった。


港には慌ただしく軽トラが走り回り。自然の風や海の音をかき消しながら海に生きる生き物たちの生態系に危害を加える爆音を響かせ、オイルを海に垂れ流しながら、人のリズム、自然のリズムとはまったくかけ離れた速さで忙しなく利便性とお金のためだけにコンクリートの要塞のような港から船が行き来する。

また少数の人間や企業が余暇やレジャーを楽しむためだけにお金が投資されて山が削り壊されて多くのゴルフ場が作られていったように、美しい砂浜をコンクリートで覆い尽くしてヨットハーバーやマリーナが建造されていった。

更に海を大きなごみ捨て場と誤解してなのか、海に汚染水を流しやすいということで多くの沿岸がコンクリートで埋め立てられコンビナートや原発が日本中の美しかった海辺に次々と建設されていった。

人命や人間の財産を津波や高波から守るためにという理由で巨大な防潮堤が建設されていった。

コンクリートの壁の内側にある砂浜や道にたっても海が見えない、海のエネルギーをまったく感じることさえできない海岸線が日本中の津々浦々に造られていった。

そしていつしか陸と海の境にある、生命の源、神聖だった自然の砂浜がコンクリートで覆い尽くされていったのだ。

海と自然の砂浜とともに生きた祖先たちが泣いている、

津々浦々の神々たちの悲しむ姿があなたにはみえないだろうか、

日本人はほんとに不思議な民族だ。

正月には9000万人もの日本人が神社やお寺にお参りにして神々に祈りを捧げ、山や木や石や食物の神様を信じ、トイレにまで神が宿ると信じている。ご飯を食べる前に、いただきます。ごちそうさま、と神様に毎日お礼をいい、八百万の神を信じ日本各地でその土地土地の神様を称える祭りを楽しむ。富士山の8合目以上は神が宿る聖域だと信じている。そんな目に見えない大きな存在を潜在的に信じながらそれが文化として芸能として根付くほどに信仰心の深い民族なのに、海に囲まれ海とともに生きてきた世界一古い海洋民族なのに、それなのにいとも簡単に自分のために、お金のために神々が宿ると信じているはずの自然を汚し痛めつける。

神聖ですべての生命の源が生まれた自然の砂浜を破壊し、大切にしないのだ。

でも、今、私達は気づきはじめている。

破壊的な利己主義を目指すのか、

それとも愛にあふれる利他主義を選択するべきなのか、


やはり人間も地球の一部で自然と共生して生きるべきなんだと。

自然やほかの生き物とのバランスを人間が破壊し乱すことで、様々な流れがおかしくなり人間自身も幸福感を感じなくなってきているということに気づき始めている。

いくら自分たちの生活が便利で効率的になり、物に溢れ、豪華なうわものを建造しても、

自分だけが物質やお金を得ることができても、

何かが足りないと感じてします。

健康を害してしまう。

自分の魂は喜ばない。

そんなことに気づき始めている人もたくさんいると思う。

とくにこの文章になぜかたどり着いた貴方はそんな人だと思う。

母なる地球の生きとしいけるものはすべてが調和しバランスをとっている。

ワンネス。

他の生き物や自然のためにならない生き方をしていると人間は幸福を感じることはできない。ということに気づき始めている。  

海は深く壮大すぎて、なかなか簡単には再生することはできないけども、その海の入口である自然の砂浜を蘇らせることは、私たちが価値観を変え行動することで、昔のような景色にもどすことは可能だと思う。
短期間で人工的に強引に手を加えて変えてきたことだから、、

漁獲も減り、跡取りも担い手もなく朽ちた船のためだけに存在する漁港はコンクリートを壊し、漁港そのものを壊し、もとの姿、自然の砂浜に戻すといい。

趣味のために海にでる船しか置いていない、ほとんど補助金と助成金だけで成り立っているような港も同様に、コンクリートを撤去してもとの海岸にもどし山と海の気がスムーズに流れる環境を取り戻すだけでいいのだ。
人為的に作ったのだから戻すことは今の建築技術をすれば簡単にできるはずだ。自然の砂浜に再生したあとのメンテナンスの費用もかからない。自然の砂浜は自然に任せればいいのだから。

今まで自然を破壊してきた土建屋が自然を再生するための救世主になる時が来たのだ。

海の生き物を一方的に搾取してお金に変えてきた漁師が、海を再生するために地球のために行動するのだ。魚の代わりに海に浮かぶゴミを集めるのだ。

手つかずの自然の砂浜で、これから開発されそうな砂浜は絶対に開発してはいけない。そこに住む地元民や、地元の漁師だけの問題ではなく、そこにある自然の砂浜は日本列島の宝、地球の宝、希望の光だと信じよう。

そこに人間が手を加え開発することで、地球のバランスが乱れ、多くの人間が病になり苦しむことになるのだ。

そして、その再生された砂浜にヴァア(数人で漕ぐカヌー)を置くだけでいいのだ。

そのヴァアは子供たちからお年寄りまで、町や村の皆、コミュニティーで大切に管理していこう。皆が力を合わせなきゃ海に浮かべることも片付けることもできないヴァアだからこそ皆の協力が不可欠になる。
自然の一部のようなヴァアだからこそ、ヴァアが置かれる砂浜は常に美しく保とうとする。砂浜がきれいになり美しい状態を維持できる。重機なんて必要ない。すべてが手仕事で行われることが大切。
そして天気がいい日は、地球のリズムを感じながら皆で力を合わせて海に漕ぎだすのだ。
「古代の人はどの島をどこの岬を目指して漕いだのかな?」と、イメージしながら老若男女、子供から大人まで、皆が力を合わせてヴァアを漕ぐだけでいい。そうすれば町民、村人同士の信頼関係も築かれて、助け合いの精神や分かち合う心も育まれる。自分の子供も、人の子供も隔てなく、その自然の砂浜で、早朝、放課後に集まり大人たちが面倒を見て、砂浜を裸足で走り遊ぶのだ。ヴァアを漕いで海にでるのだ。

その太古の地球の生命が誕生した聖地で。そうすることで今私たち現代人が必要としている一番たいせつなことを得ることができる。
自然の砂浜とそこにヴァアがあることで地球の生き物そして人類も蘇る。
僕はそう強く信じている。

そんなことを国家プロジェクトとして始める時が来ていると思うのだ。

すでに残っている自然の砂浜の保全活動と、すでにコンクリートで覆われた海岸をもとの自然の砂浜に戻すための活動、
【自然の砂派を蘇らせる】ことを目指す仲間を募集しています。
また、自然の砂浜を蘇らせる活動をやりたい!いう全国津々浦々からの声をお待ちしています。paddle for mother earth までご連絡お待ちしています。



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