理性的に生きるとは(feat.カント哲学)【哲学の講義より〜】

大学の授業の課題なのですが面白いこと書けた(主観)ので投下いたします。

理性的に生きるとは「誰かを心の底からの無償の愛で包み込むこと」であると考える。
ここで重要なのは無償の愛であり、決して相手に見返りを求めないということだ。

カントの言う理性、特に実践理性とは道徳的行為であり目的のないshouldである。

例えば困っている人を助けるという行為も道徳的なように見えるが、ここには
「人助けをした良い自分」に酔いしれてしまうようなエゴイズム的な思想があったり、
「周りに良い人と思われたい」という承認欲求、
「感謝されることで自己の存在を肯定したい」といったような感情があったりするように思う。

少なくとも私はそのような側面があるし、
人のため、特に赤の他人のために何かをするというのは偽善であると思われても仕方ない部分がある。 

そのような行為は果たして道徳的と言えるのだろうか。

何かしらの利益を求めて起こす行動は決して理性的なものではない。
またそのような行動原理に基づく人は、欲求など何らかの奴隷であって決して自由な意思により行動できているのではないと考える。

一方で誰かを愛するという行為は目的がない。
見返りも世間からの評価も自己の存在価値も何も求めず、ただ愛という動機によって相手のためになる何かをしてあげるべきだという意思が生まれ、行動に移すことができる。


これほど自由意思に則った目的のないshouldは存在するだろうか。

当たり前だがわが身を削って相手に尽くす、すなわち自己犠牲になってしまうことは愛とは呼ばない。
それは犠牲である。

また、善悪の区別もつけられないほど盲目的になってしまうことや一方的に好意を押し付けることも愛とは呼ばない。
それは恋である。

もちろん相手に自分の居場所や存在価値を依拠することも誤りだ。
それは依存である。

これらに当てはまらないものこそが愛であると考える。
そしてそのように誰かを愛すことこそが理性的に生きることであろう。

これは非常に難しいことだと思うがそもそも様々な欲望に曝されてしまう人間が理性的に生きるということ自体が難しいことだと感じる。

しかしそれらの余計な欲望や雑念を乗り越え理性的に生きることができたら、人間はこの上なく幸せに生きることができるだろうとも考える。

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