ほっちのロッヂの記録:2か月のまとめ!
2月から、ほっちのロッヂで「感じ手」として過ごしていました。
みどりが芽吹く時期までいるつもりだったのですが、雪が降りました⛄
いきいき暖かい時期に、また来たい。
2か月で感じたこと。
なぜロッヂで過ごそうと思ったのか
1月から9月までの休学期間。
どこでなにをして過ごそうかな?ということを考えていた昨年12月、知り合いの紹介でほっちのロッヂに1週間やってきた。
年明けから春まで、ロッヂで過ごしたいと思った。
理由は主に3つ。
1つ目は、医療的ケアが必要な子どもたちの表現を、もっと知りたかったこと。言葉を使わない子どもたちが、何を感じ、考え、伝えようとしているのか、さっぱりわからなかった。それが悔しかった。
この子たちのことをもっと知りたい、少しでもいいから伝え合えるようになりたい、と思った。
2つ目は、この空間が、「誰もがその人生の主人公として存在できる、舞台みたいな場所」だなあと思ったこと。そんな空間を感じたり、しかけを知りたいと思った。
ロッヂを森の中からみてみると、絵本のなかに入ったみたいな感覚になる。「自分はここに居ていいんだ」「私の好きを大事にしていい場所なんだ」と思える。絵本の主人公になった気分になったのを覚えている。
働き手、診療所に来た人、その家族、お台所さん、学校がなんとなくいやでふらっとやってきた子ども、みんなそこに居て、「私」を発揮することが許される。絵でも、音楽でも、身体でも、写真でも、たたずむだけでも、どんな表現でもいい。
すてきな場所だなあと思った。
3つ目は、軽井沢という場所。屋根のない病院って言われるくらい、空気がきれいで心身にいい環境。
軽井沢の自然、あたたかい人に心地よさを感じて、しばらくここにいたいと思った。
子どもから感じたこと
なにに目を向けるのか
座れない、走れない、手先を器用に使えない、話せない。そういう「できないこと」を見つめ、決めつけ、不安になり、戸惑っていた。
過ごしているなかで、子どもにはできることがたくさんあると気づけた。歩けるし、絵を描けるし、走れるし、本を読めるし、そりに乗れる。
大人は、大人にしか見えない狭い世界で、たくさんのことを決めつけて生きていた。分厚いめがねをかけていると思った。
一緒に居ることが楽しくなった
遊んでても、楽しいのか、何がやりたいのか、わからない。
ご飯を食べるとき、まだ食べたいのか、もういらないのか、わからない。
おむつを替えるとき、苦しい姿勢なのか、大丈夫なのか、わからない。
とにかく、子どもが何を感じているのかわからなくて、もどかしかった。私が伝えたいことが伝わっているのかわからなくて、つらかった。
子どもと時間を過ごす中で、子どもの表現に気づくことが増えた。
手をばたばたする、足が伸びる、顔の向きが変わる、歯ぎしりをする、声を出す、涙を流す、まぶたを閉じる、眉をひそめる、舌を出す…
きりがないのだけど、子どもたちは、そういう、言葉じゃない表現をたくさんしてくれていた。
それは、私が私の世界のなかにいるときは気づけない。
子どもに流れている時間と一緒になってそばに居ると、気づけた。子どもの表現に目や耳を澄ませるようになった。
happyか、unhappyか、伝わってくる。
happyのときは、私もhappyになる。unhappyのときは、なんでかなあ、ってその子が不快に思っている理由を考えられる。
happyになったとき、うんちが出てすっきりしたんだ、とわかって、自分のことみたいに嬉しかった。
「医療的ケアが必要な子たち」のことをもっと知りたい、通じ合えるようになりたいって思ってここに来た。彼らと「医療的ケア児」として出会い、接していた。
今は、わからない悔しさよりも、「一緒に居てくれて、happyもunhappyも共に過ごさせてくれて、ありがとう」って思う。一人の人間としてこの子が好きで、一緒に居られて嬉しいと思う。
ラベルを勝手につけていたし、そのことに気づいてなかった。そんなの無しに、一緒に居ることを楽しめるようになってよかった。やっと友達になれた気がした。
働き手の姿から感じたこと
「働く」ってことの、重さと、おもしろさ。
私がこれまで活動をしてきた現場とロッヂで違うのが、「学生スタッフ」「学生ボランティア」みたいな立場の人がいないこと。まわりの働き手はみんな、給料をもらって働いている人たち。
「働く」「仕事」ってこういうことだな、って学んだ。
時間、エネルギー、生活をかけて、地域の人に向き合っている。本気で目の前の人の暮らしを考え、よくするために惜しまない。いつも楽しそうに、人の話をしている。
私が学生として関わる活動では、どうしても背負いきれない責任があって、「自分の学びのため」という要素が強い。ロッヂでも2か月限りの関わりだし、前まで関わっていたNPOでも、受験生が受験を走り終えるまで一緒に居ることはできなかった。
人の暮らしのために惜しみなくエネルギーを割けなかったし、人の話ばかりはできなかった。本当に目の前の人に向き合おうとしていなくて、結局は自分の「学びのため」。
「学生のうちに経験できることを経験したい」と休学を選んだけれど、ここにきて初めて、「はやく学生を終えて、大事なモノを背負って本気で向き合うべきものに向き合いたい」と思った。
学びは死ぬまで続ける。でも私は、哲学も実践も大事にしたい。
だから、学びのための実践ばかりふらふらするのではなくて、学びと両輪で本気で向き合うべきものに、向き合いたいと思った。
多中心で、それぞれが起点になっている職場
ほっちのロッヂに居合わせ、自分起点で動く、ということは、責任もセット。
決して、勝手に自立して自分起点なのではない。その人のアイデンティティ・考え・価値観・想いがあって、それに責任をもち、チームにおける自分の役割や状況を理解することで、自分起点で動くことができる。好きなことを大切にし続けられる。
こういう現場で働いていきたいなと思う。
決められた正解を追って、他人からの評価で立場や役割が決められるのではなく、自分起点で働く人たちの集合体。
そこには、それぞれの想いと責任を持ち合わせて。
これから大切にしたいこと
友達になること。
「医療的ケア児」のラベルを貼ってここに来たと気づけた。私は普段から、人にいろんなラベルを貼って生きていると思う。そうしないように、意識しているつもりでも、どうしてもメガネをかけてしまう。
相手にも自分にも、できるだけラベルを貼らないで、この人!と思った人と、純粋に友達になりたい。一緒に居ることを楽しみたい。
私が持っているものと、サポートが必要なものを理解すること。
私は、好きなことや自分の軸はずっと大切にして生きていきたい。そのときに、私の軸に含まれるものと、含まれないからサポートしてほしいものを、私自身がわかっていないといけない。そうやって、チームにおける役割と私の軸を、共生させていきたい。
身体をいれて本気で向き合うべきものに向き合うこと。
私が心動かされるものに、生きる時間の多くを使いたい。準備運動しながら常にからだは前に、向き合うべきものに向かって進んでいたい。
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