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気まぐれな断想 #4

 私たちが出会うクライエントは、多くの場合、何らかの「主訴」を携えて、心理臨床の場に現れる。そうして、面接を重ねるうちに、「主訴」は「解決」を見ることがある。しかし、面接がそこで集結するとは限らない。クライエントの希望で、面接はさらに継続することがある。そこでは、改めて面接の目標が確認し直されて、面接開始当初とは異なる「主訴」が掲げられることがある。いや、待ってほしい。それらの「主訴」は、本当に互いに異なるものなのだろうか?

 一見したところ明らかに異なるように見える当初の「主訴」と、改めての「主訴」とは、実は根っこのところでつながっており、同じテーマが、姿を変えて現れているに過ぎないのではないだろうか?

 クライエントの「主訴」は、一般論として、面接を重ねることを通じて、その「解決」が目指されるものである。しかし、「主訴」が「解決」しても、クライエントが面接の場から立ち去ろうとしない場合、そのクライエントにとっての「主訴」とは何だったのだろうか? 「主訴」の「解決」にはどのような意味があったと考えればいいのだろうか?

 このようなことを考えるとき、夏目漱石の『道草』の末尾の、よく知られた次の一節が思い出される。

「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」

 クライエントの「主訴」もまた、そのようなものではないだろうか? クライエントの「主訴」は、いつとも知れないときから始まった「何かあること」が、たまたまそのような「主訴」として、そのとき、顕著なあり方で、姿を現したのではないだろうか? だから、それを「解決」したところで、何も「片付く」ことはなく、さまざまに姿を変えつつ、まるで、それと気づかないでいるクライエント自身から注意を向けられ続けることを求めるかのように、倦むことを知らず寄せては返す波のように、繰り返し姿を現すのではないだろうか?

 一見したところ、まるで別々のものに見えたものが、あるいは、まるで別々のものとしてしか語り得なかったものが、実は一つの同じものの現れであるという肚の底からの実感が生まれてくるとき、私たちは、はじめて、その「何かあること」と向き合うことができるようになるのかもしれない。そうして、はじめて、何か真に新しいことが、始まるのかもしれない。

 心理臨床におけるカウンセラーの仕事の一部は、そのような、おそらくは長くかかる過程を、クライエントと共に歩み行こうとすることにあると、私には思われる。(KT)

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