見出し画像

クライエント語

「クライエントの言うことを、クライエントが言うままに理解する」。
一見簡単なようで、実は大変に難しいことのように思う。
その難しさについて、考えてみた。

心理療法の場でクライエントが話しているのは、「クライエント語」である。
一方、面接者は「面接者語」を使っている。
両者はともに日本語の派生言語であり、大変に似通っている。用いている語彙や文法には共通しているものも多く、そのため、それぞれが異なった言語であることに気づかないことがしばしばである。
それでも、両者はあくまで異なる言語なのである。しかし、面接者はそのことに気がつかずに、つまり、クライエント語を面接者語として聞いてしまい、わかった気になってしまう。ところが、それはクライエントがクライエント語で伝えようとしている内容とは、大きく異なっていることも多いのだ。
それはたとえば、よその土地の方言を誤解することに似ているかもしれない。

広島の方言に、「みてる」という言葉がある。これは、標準語でいえば「なくなる」という意味であり、「さっきまであったけど、みてた」(「さっきまであったのだけど、なくなった」)といったように用いる。
他の地方の出身者は、たいていの場合この言葉を、「一杯になった」という意味として誤解する(おそらくその音から、「満てる」や「充てる」という漢字を当てるのだろう)。
しかし、「なくなる」と「一杯になる」とでは、正反対である。相手が広島弁で「風呂のお湯が、みてた」と言ったのを、こちらが「風呂のお湯が、一杯になった」と理解したらどうだろう。裸で風呂場に向かった挙げ句、風邪をひいてしまうかもしれない。そして、ウソを言ったと、相手を非難してしまうかもしれない。

同じく広島弁だが、「えらい」という言葉を、「疲れる」「大変である」という意味で用いることがある。「きつい坂を上がって来たけぇ、えらかった」(「きつい坂を上がってきたので、疲れた」)と言ったりする。
これを「きつい坂を上がって来たので、偉かったです」と受けとると、大変な誤解をしたことになる。「坂を上がって来たぐらいで偉いなどと、この人は何とまあ大げさで、自己愛的な人だろうか」などといった、相手に対してまったく的外れな印象をもってしまうかもしれない。
さらにややこしいことには、広島弁でも「えらい」という言葉を「偉い」という意味で使うこともあるのだ。どちらの意味で使われているのかを区別するには、文脈によるしかない。

断るまでもないが、筆者が言いたいのは、クライエントが方言を使っているときには注意すべきだ、ということではない(※)。それよりももっとやっかいな問題が、クライエント語と面接者語との間には存在するように思うのだ。

方言であれば、標準語との対比で、その意味を確認することができる。「『みてる』というのは、標準語では『なくなる』という意味だ」といった具合に。
しかし、クライエント語と面接者語との間には、両者の間を介在して意味の違いやズレを明確にするような言語、たとえば方言の場合の標準語のように基準として機能する言語はないのである。だから、ズレている、誤解しているということに気づくことが、大変に難しい。

では面接者はこの問題に、どのように取り組むべきなのか。

特効薬はないように思う。
しかし、まず何よりも心に留めておかなければならないのが、クライエントの言っていることを、簡単に「わかった」と思ってしまわないことだろう。
わかったと思っても、多くの場合それは面接者語として理解であって、クライエント語での理解ではない。したがって、自身の理解はクライエントが伝えたいと思っていることとは違う可能性がある、というか、むしろその可能性が高いのではないか、と考えてみることが必要なのだろう。

われわれにはどうやら、どんなことでも正しい手順を踏めば、あるいは注意深く考えればわかるはずだと、思い込んでしまう傾向があるようだ。あるいは、わかることが当然であり、わからないことは問題がある状態だとも、考えてしまうようである。
しかし、改めて考えてみれば、あらゆることがわかるなど、そもそもありえないのだ。もちろん、話をしている相手のことも、そんなに簡単にわかるわけがない。そのことは、この世の中に、争い、仲違い、誤解によるすれ違い、などが満ちあふれていることを考えてみれば、明白なはずなのだ。むしろ、誤解しているのがデフォルトであり、理解しているのがむしろ希有な事態である、ぐらいに考えなければならないのではないか。

もう一つ。「クライエントが言うことを、クライエントが言うままに理解する」ための重要な手がかりとして、「文脈」があるように思う。クライエント-面接者関係、あるいはそれを含み構成される、面接の場という文脈。
ただ、このことについては、ここに書き記せるほどに筆者の考えがまとまっていない。ので、また後日。(右)

※クライエントが方言を使っているとしたら、もちろんそのことにも面接者は注意を払わなくてはならない――以下は筆者の失敗経験。
関西で臨床を始めて間もない頃の話。あるクライエントが自らの父親について、「○○してはる」と言った。それを聞いた筆者は、<このクライエントと父親との関係は、他者(面接者)に父親の話をする場合でも敬語を使わなければならない程の、非常に緊張に満ちた関係なのだ>と思い込んでしまった。
後日、関西出身者にこのケースについて相談していたとき、「○○してはる」には、標準語でいうところの「○○しておられる」ほどの強い意味はなく、親に対して用いるのも珍しくはないのだと言われた。
それを聞いて、わしゃあ、えろうたまげわい……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?