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渾沌に穴を穿つ

ここのところ、クライエントを「わかる」とか「わからない」とかいったことを、あれこれと考えている。

そもそも何事かを「わかる」とは、どういった事態なのだろうか。

この世界の本質は、渾沌(カオス)である。そこには、固有の意味はない。それはただ、そこにある。
われわれには、そうした世界全体をそのままの形で「わかる」こと――把握すること、認識すること、理解すること――はできない。われわれが「わかる」ことができるのは、世界についてのほんの一部でしかない。それも、われわれが自らの生と関連づけた形で世界を切り取った一部についてだけなのである。……「切り取る」という表現でわかりにくければ、世界に何らかの「パターンを見出す」ことであると言っても良い。あるいは、われわれのやり方で「世界を組み立てる」でも良いのだが。

何にせよ、世界を「わかる」ことがどのようなものであったとしても、その「わかる」から排除されるものが必ず残る――切り取られなかったもの、パターン抽出の際に除外されたもの、あるいは実際に採用されたものとは異なった組み立て方の可能性、といったものは残るのである。したがって、というか、当然ながら、「わかった」もの/「わかった」ことは、世界そのものではない。
その意味において「わかる」という営為は、世界に対する暴力的な関わり――世界を矮小化すること、ないしは、手前勝手に加工すること――であると言えるのではないか。

これとはまた別の視点からも、「わかる」ことは暴力的である。
この世界が固有の意味をもたず、ただそこにあるということは、さまざまな意味を展開させる可能性を孕んでいるということでもある。しかし、世界を「わかる」ということはここまで見てきたように、その可能性を狭め、限定することに他ならない。
それもまた、世界からすれば、ある種の暴力的な関わりということにならないだろうか。

中国の古典である『荘子』には、中央の帝王である「渾沌」なる存在が登場する。
渾沌には、目、鼻、耳、口の七つの穴がない。あるとき、南海の帝と北海の帝が、自分たちを篤くもてなしてくれた渾沌に対する感謝の気持ちを表すために、渾沌の顔に目や鼻となる七つの穴を空けた。良かれと思って。しかし、そのことによって渾沌は死んでしまった。
この故事から、物事を無理な道理にしたがって捉えようとすることを示す「渾沌に目口を空ける」という成語ができたというが、この故事成語はまさに、「わかる」ことが孕む暴力性を如実に表していると言えるのではないだろうか。

とはいえ、暴力的だからそうしない、というわけにもいかない。われわれは、何かを「わかる」ことをせずに、世界とかかわることはできないのであるから。

では、どうするか。われわれにできることは何か――それは、「わかる」ことの暴力性から目を背けずに、それを見つめ続けることではないか。「わかる」こと、つまり穴を空けたことによって、渾沌にどのような状態をもたらしたのかを、見つめ続けることではないか。

こうしたことは、そのまま「クライエントをわかる」ということにも当てはまる。こちらの枠組みを押し付けてクライエントを「わかる」ことも、また、クライエントを「わかる」ことでそれ以外の仕方でクライエントを「わかる」可能性を滅してしまうことも、同じく暴力的な営みなのだ。
――いや、そうではない。同じではない。「クライエントをわかる」ことにおいては、そうした暴力性は一層顕著なものとなるのだ。なぜなら、われわれが関わる「クライエント」とは、ことさらにそのような「わかる」ことの暴力にさらされてきた人たちであろうから。彼ら/彼女らは、われわれと出会う前に、それこそ好き勝手に「わかられて」きたのであろう。そして、そのことで自らから疎外され、ひどく傷ついてきたのであろう。

そのことに、われわれは繰り返し繰り返し、そしてまた、深く深く、思いを致す必要がある。
そうでなければ、良かれと思って渾沌に穴を穿ち殺してしまった北海や南海の帝と同じことを、われわれもまたクライエントに対して行ってしまうことになるだろうから。(右)

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