西陣のまちと西陣織のルーツを巡る
※下記基本的にメモなので、適当に読み流しください。
12:30 西陣織会館
西陣織の歴史と織物の実物が見たくて最初に西陣織会館へ向かう。
【西陣織の歴史】
・応仁の乱の後、西軍の本陣跡一帯に機屋や流通業者が集住
・京都という立地から為政者の庇護もあり、華やあかな高級織物を中心に発展した。
・明治維新後、東京遷都により一度衰退するも、ジャガードをはじめ
とする近代織物技術を導入し、精密な高級織物の量産を可能にした。
・1976年に伝統的工品品として指定される。
【西陣織の特徴】
①先染紋織:先に染めた糸を用いて模様を織り上げる
②京都西陣の一帯を生産地とする。
③分業工程:色とりどりの糸を用いて高度な技術を要するため。
④高級織物が中心
【西陣織の工程】
①企画製紋:デザインや色、織組織を決めて紋紙をつくる
②原料準備:必要な縦糸横糸を用意する(染・整経)
③機準備:織り機、ジャガード、綜絖、筬、杼を用意(糸をセット)
④製織・仕上げ
13:00 西陣のまちを歩いてみる
今出川通りを少し歩き、浄福寺通りを織成館方面に向かって歩く。
途中、至るところで機屋の看板や、糸屋の看板を見かける。
西陣織は、高度に分業化されているが、中心地ははっきりとしている。
14:00 織成館
帯地製造業を営んでいた「渡文」の初代投手である渡邊文七氏の店兼住まいとして建てられた建物を改装して「織成館」として一般に開放されている。
狭い間口や、奥行きの長い棟、明かり取りの天窓など、西陣の伝統的な家屋の特徴を実際に見ることができる。
【メモ】
・横糸を通す際に用いる「杼」は木材や作り手によって滑りが違う。
西陣では杼を作っている職人が90歳になり、後継がいない状態とのこと。
・高度に分業化されているため、出来上がりの作品を糸屋や染め屋は滅多にみれない。
分業化が進んでいるため、業者間で密な交流があるだろうが、
職人同士の仲間制度はどういったものがあるのか?気になった。
15:00 小休憩:のばら珈琲
織成館から歩いて3分ほど、住宅地のほそい路地を抜けたところにある別世界。
太秦(うずまさ)のまちへ
西陣織の源流は5、6世紀頃大陸からの渡来人である秦一族が京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたことに始まる。
その西陣織のルーツを求めて今度は、北野白梅町から嵐電に乗り、太秦へ向かう。
16:00 広隆寺
聖徳太子から賜った仏像を祀るために秦河勝が創った広隆寺。
養蚕をこの地で興したとされる秦氏ゆかりの寺で、大陸顔の弥勒菩薩が有名。
秦一族は大陸からの移り住んできた渡来系とされるが、この山城の地に養蚕や織などの興したとされる。なんだかシルクロードのロマンを感じちゃう。
【秦河勝とは】
・聖徳大使(廐戸皇子)の政治を助けたとされる人物。
・秦の始皇帝の子孫であり、大陸から蚕の卵と織物技術を伝えた渡来形の秦一族の1人
・蚕に似た虫を、蚕であると偽って広めた大生部多と呼ばれる者を退治したという功績をもつ。
16:30 大酒神社
秦氏、秦酒公を祀る神社。入口には「蚕養機織管弦楽舞之祖神」「大秦明神 呉織神 漢織神」と記した石標がある。もとは、広隆寺の境内の中にあったようだが、明治の神仏分離令で広隆寺の境内から遷された。
【秦酒公とは】
百済の国から1万以上の民を連れて帰化した秦の一族であった秦酒公。秦の民が分散して思うがままに駆使されていたのを気に病んでいた。その様子をみた、酒公を寵愛していた天皇は、秦の民を集めて酒公に仕えさせた。酒公はそのお礼として、一族で蚕を育てて、織りあげた大量の庸調の絹あ織物等を献上した。大量の織物を朝廷に積み上げたことで「太秦(禹豆麻佐)」と呼ばれるようになった。
献上したという呉織物、漢織物とはどういうものだったんだろう。見てみたい。
木嶋坐天御霊神社
大酒神社から太子通りを歩いて15分ほどで着く。701年以前から続く歴史ある神社。
機姫を祀る養蚕神社があることから蚕の社と呼ばれている。
養蚕、織物、染色の守護神であるとされ、境内の中を歩いていると西陣織の職人仲間の奉納の印なども置いてある。
以上、西陣のまちと西陣織のルーツ巡りでした。
【気になったトピック】
・秦氏のルーツについて
・呉織、漢織とは
・西陣の職人ギルド
・西陣織の原料は主にどこから?
・屋根の上の家守はどういった習慣?
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