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サカキ記念日

会いたいとあなたが言ってくれたから
九月七日はサカキ記念日。

二人の、ではなく
六条の御息所といまも呼ばれる
私一人の、それは記念日。

長月七日、晩秋の嵯峨野
野の宮の森に吹きわたる木枯らしも
霜に移ろう花の色も、心に沁みる
この日――

       *     *     *

あの頃、ここ野宮(ののみや)は斎宮となる皇女が
斎戒沐浴して伊勢下向を待つ神域でした。
時とともに祭祀は廃れ、いまは
黒木の鳥居と小柴垣に昔を留めるばかり。
この寂寥の宮居も、往時はなんと
神さびた賑わいに満ちていたことか。

そこここに焚かれた篝火
きらめく影となって行きかう衛士たち。
斎宮に奉仕する宮人たちのささやきは
かすかな虫の音に和し、
女房たちの管弦の調べが
風に乗って高く低く流れて。

長月七日、
斎宮となる幼い姫宮に生母として付き添い
明日にでも伊勢へ出立というあの宵、
あなたは私を訪ねて野宮においでになりました。

上弦の月が辺りを華やかに照らす
その輝きにもまさる、あなたの美しさ、
光の君と呼ばれた、あなた!

桐壷帝の諫言もあり、ご自身も
このまま会わずに別れるのは、世間の習いからして、
いかにも礼儀に反するとお考えになったのでしょう。
それとも、いざ別れるとなると名残惜しいと
お思いになったのでしょうか。

袖の香を漂わせ、あなたは奥の庭先へ、
そのまま、私がお招きするのをお待ちでした。

斎宮との伊勢下向を望んだのは、
京(みやこ)から―― あなたから、
遠ざかりたいと願ったから。
いまここでお会いすれば
その決心も鈍りましょう。

お会いしたい、してはいけない……たゆたう私に
あなたは業を煮やされたのでしょうね、
手折ってお持ちになっていた榊を一枝、
御簾のうちに差し入れられたのでした。
「この常盤木のように変わらぬ心に導かれて
斎垣も越えてしまいました。それなのに
こうもつれなくなさるとは」
こんなお言葉とともに。

そして榊の枝を追うように、ご自身も御簾の内へ。
揚げた御簾が半ばお背中(せな)に被ったままも構わず
躙(にじ)り入っておしまいになったのでした。

       *     *     *

轍の音が聞こえましょう?
あの葵祭の日のように、網代車に乗って
今年もまた、私は戻ってきました。

「車争い」
あの小競り合いを人はそう呼びます。
いまを時めく大臣の姫にして源大将の正室、葵上。
その車に、私の車が押し退けられ、
その恨みが嫉妬となって葵上を悩ませている、と
そんな噂に、あなたは私を疎まれ、当たり障りのない
お文を遣わされるばかり。

とはいえ、嫉妬も恨みも、
所詮、かなしみのかたち。
それに人は、私にかぎらず、誰しも
己が物の怪を心のうちに養っているもの。

葵上を一度打擲して解き放たれた私の闇は、
分別も忘れ、道理も越えて、
光の君、あなたを求めて駆けめぐっていたのです。

身に覚えのない芥子(けし)の香。
憑物退散の祈祷に焚く護摩のにおいが
この身について離れぬのに気づいたときの
言い知れぬおぞましさ。

けれども、またしても魂はからだを離れ
空中を浮遊しながら、行かずにはいられなかった、
葵上の、いいえ、その枕辺の
あなたのもとへ。
   かなしみの空をさまようわたしの魂を
  下前の褄を結んで、結び留めていただきたいばかりに。

       *     *     *

片割れの月は破鏡。然あれ今宵
野宮を照らす夕月のしずくは、森の下露。
その露を払い、お訪ねくださったあなたも
お訪ねいただいた私も、いまは夢、幻。

小柴垣に黒木の鳥居、
この鳥居から一歩を踏み出し
夜の静けさのうちに偶さかの平安を求めたとて
それが何になりましょう。
あの榊ゆえに、こここそ、私の神域、
心しずまる恋の宮居なのですから。

長月七日、年ごとに色の濃さ増す
常緑の枝を、今度は、私が
あなたに贈りましょう。
また一年の秋を待って
   《 たれまつむしの音は りんりんとして
   《 風茫々たる 野の宮の夜すがら
   《 なつかしや

       *     *     *

「相手を呼び求めて、ついに相手を越えてしまった」(リルケ)
ポルトガル尼僧マリアナ・アルコフォラドのように
謡曲「野宮」のヒロインもまた
「愛の女性たち」の一人であったろうか。

迷い猫よろしくパリの街を歩き回っては
最後はいつもクリュニー美術館に辿りついて
『マルテの手記』中に語られた六枚のタピスリー
「一角獣の貴婦人」の前に立つ。

五感を表すという五枚と、銘が織り出された六枚目。
高貴な女人を護る天蓋の縁いっぱいに広がる四つの語、
《 A  Mon  Seul  Désir( わが唯一欲するものへ ) 》。
五感を介して知り、五感を越えて出会う
〈 あなた 〉を、わたしはひたすら欲し求める……。

西欧中世の終わりを生きた貴婦人と、
同じころに成った「野宮」に舞う御息所の面影が
静謐な光に包まれ、いつの間にか重なり合って
猫たちの心をあふれさせる。

五百有余年の時空を無化して
小春日の、この午後に。

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