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ロシア語…

ピカピカの一年生、文学部では
現代語(第二外国語?)が必修科目、
勉強したい言語を一つ選んで
学年初めに履修登録する。

スペイン語、ドイツ語、英語…
フランスの大学なので、お隣の国の言葉が並ぶ。
お隣ではないけれど、なぜか、ロシア語も。

キリル文字から学び始めるのなら、
クラス全員が初心者(のはず)だもの、
気が楽かも――そんな打算が働いて、
アドヴァイザーの教官に
「ロシア語にします」
「そうね、お隣の国の言葉だものね」
ロシアって、日本のお隣の国……ニャんだ。

始めた動機が不純だったこともあり
見慣れない文字、耳慣れない音の連なりに閉口。
そんな新学期が始まってしばらく経ったころ
会話を担当する「外国人助手」として
レニングラードからロシア人女性が赴任して来た。

1970年代、ロシアはソヴィエト連邦で
ペテルブルクはレニングラードと呼ばれていた。
彼女、ナターシャは四十台半ば、
落ち着いた色づかいのお洒落な装い、
とてもエレガントなフランス語を話す。

ナターシャは、さっそく
学生寮二階の自室に教え子たちを招き
ロシア風のお茶会を開いてくれた。
ついでに(?)会話のミニ授業。
「丁寧に話したい時や、何かお願いする時には
”パジャールスタ”(どうぞ)って言うといいのよ」
お茶碗を渡しながら「パジャールスタ!」

その時、
ふと窓の外に目を遣った仲間の猫が
「ねぇ、ちょっと、見て見て…」
ニャニ、ニャニ、と窓辺に駆け寄るのを
ナターシャは無言で制し、静かに立ち上がると
素早くカーテンを引いた。

猫たちは確かに見た。庭の樫の木の太い幹に
隠れるようにして立っていた男性二人を。
黒っぽいトレンチコートに中折れ帽、
季節外れのサングラス、
「KGB(ソ連の秘密警察)……」
誰かが小声でつぶやいた。

あたりを凍てつかせたまま
どこかへ消えてしまった彼らと
二度と会うことはなかった。
ナターシャの会話クラスも、それからは
大学の教室で開かれ、午後の優雅な茶話会は
『桜の園』の一場面のような
遠い記憶の一片になってしまった。

            🌻

中央山塊にある大学に入学した年、
近くの山間でダム工事があった。その現場に
ソ連から、土木工学の技術者たちが
研修に来ていたらしい。

無事二年生に進級した冬の終わり
技術者たちは帰国することになって、
ロシア語を勉強している学生猫たちを
お別れの食事会に招待してくれた。

立食パーティーかと思っていたら
きちんとした夕食会で、子猫まで
たどたどしいロシア語で、自己紹介。
「ヤー コーシュカ(子猫です)」

宴たけなわ。
学生猫たちがロシア語混じりのフランス語で
「モスクワ郊外の夕べ」や「カチューシャ」を歌うと
お返しに、男声の歌声が朗々と響く。
「コサックの子守歌」にどこか似た
懐かしい旋律、かと思えば
力強く跳躍する舞踏のリズム。

技術者たちはすっかり打ち解け
故郷の話をしてくれた。
(でも、なぜか小声で)
青い空の下、ヒマワリ畑が広がる
南の地、黒海を望む村々――
そこには、母たちが待っている、と。

            🌻

コサックの大地に
ロシアが侵攻して1年が過ぎた。
クリミアを奪って9年、
ロシア語は、嘘と脅しにまみれ
おぞましい言葉になってしまったのか――
大帝国ロシアの国語に。

「ウッラァァ(バンザイ)!」
野獣の咆哮が二度、三度
広大な競技場の空気を引き裂く。
「ロッ・シッ・ヤ、ロッ・シッ・ヤ」
まるでゴリラのドラミング。
(ゴリラのみなさん、ごめんニャさい💦)

たった二年間、単位を取るためだけに
ノッソリお付き合いしていた「第二外国語」なのに
時折、三角お耳が一つ、二つ、単語を拾う。
「プラウダ(真実)」
「スパシーバ(ありがとう)」

嘘つきのあなたが
「真実」を口にする。
「ありがとう」は、あなたの妄想に
精神の自由と生命を捧げる
隷従の民への感謝――感謝?

美しい言葉が泥にまみれていく。

帝国の国語はいつも理不尽、
そして限りなく残忍。
かつて大日本帝国の国語も
朝鮮半島の、南の島々の、北の大地の
人々の言葉を奪い、存在の拠りどころ
固有の文化を消し去ろうとした。

大ロシア帝国の国語も、同じ。

            🌻

ねこじゃら荘の本箱の
ガラス扉の向こうに
マトリョーシカ、
こけし(七福神?)に想を得たという
入れ子細工のお人形。

一番大きなお人形のなかから
一番小さな子まで順に取り出す。
そして、ゆっくり元通りに収めながら、
願いごとをひとつ。

マトリョーシカに託した
心の願いは必ず叶うと
お土産物を商っていた
不思議な少女が教えてくれた。

それなら、マトリョーシカ、
可愛い小さなマトリョーナ、
どうかお願い!

ロシア語が、一日も早く
大帝国の国語なんかであることをやめ、
カインの罪を嘆く子らの
母なる言葉となりますように。

マトリョーナ、
  マトリョーシカ、
    ―― パジャールスタ……🌻

                 

                 *表題画像はマリウポリ、修道院遠景
                      (2022年5月以前に撮影)