其の少年の横暴たるや邪智暴虐の限りして私の長らく生きた中で最も剣呑で残虐極めた人物であった。時間とは実に身勝手なものであらゆる事の憤慨、躁鬱、喜怒哀楽をも脳裏から遺つることが出来るものであったが、私の諸経験の中でも主たる恐怖、戦慄したる事の甚しきを、私は記憶に深く切り刻まれ、今も尚霧の明けたように鮮明に残っているのである。私と少年は長年の仲ではあるが、嘗ての在りし日の一事は断片的では愚か、一切の揺らぎも無く、片隅の小蠅の呼吸すらも覚えるような出来事と為った。其は時辰儀でさえも、その彳亍を止るかを躊躇う程暑く、蒸し風呂のような熱れの中で起った。時は突如として剣呑な近寄り難き何かを告げ知らせた。彼と私は学内の部屋を共にしていた為に私は逸早くその異変に気づいた。其は万人の紛う事無からん程の異常さだった。血糊の糸で編んだ蜘蛛の巣のように血走った眼は今にも本物の血の泪さえ流すかの如く、両手は震え、握り締めているのは鋏だった。両手に鋏?用途に倣って使うならば一つで事足りると云うのに、両手に一つずつ握りしめているのを私は頗る不思議がったのを覚えている。私の目の前を通り過ぎ、荒い音を立て階段を駆け降りた先は道の脇になっている筈だった。彼はそこで立ち止まった。その異常が可也のものであることに気づいたのはそう早くはなかった。そこには二つの鋏を持つ事への懐疑心ばかりで其の狂おしい程の彼の感情の如何は奇しくも容易くは無かったのである。人でも殺めるのか?彼の何事も癪に障る気質が彼の心に火を灯たのかもしれぬ。そう思うと私は足早に彼の尾を捕えに長い階段を駆け下りたのであった。


私を待ち受るのは横たわる人の亡骸か?それとも、、、。脳裏を過るのは単にあやふやな疑いにのみならなかった。思い立ったものの相手が遁げて居たら、そう思い彼は二つの鋏を自らの頸元に、、、。等の事は想像し得るに容易い事だ。果たして其処に居たのは見知らぬ人のでも、彼の死骸でも無かった。然し震わす両手に握られて居た鋏は真っ赤な血糊を滴らせて居たのである。それは夏の陽炎に揺られ、血の海を波立たせていた。最近口にした西瓜の幾倍も紅く燃え滾る炎のように、目の裏を焼き付けた。然しその海は何処より来るのか。彼の咽元でも、何人の心臓でも無い。私は路傍の何か小さい塊に気が付いた。ドス黒い表面を覆う液体は確かに少年の手にする鋏の端の色に一致していた。紅く紅く染まる液体は果たして本物の血であった。私は暫し前より彼の手の震えに気づいて居た。人の震えと云うのは何か怯えるような、心の奥の底の拍動の伝わる波よりも荒く、冷たいものである。然し彼の震えと云うのはリズミカルで均一な波に乗り、彼の心の痛快たる何かを擁していた。彼は笑っていた。私は驚きを匽し得なかったが、彼の破顔の所以に気の昂りの何かを生ぜしめた。私はふと路傍の其の物体が微かに動いたのを感じた。然し其れは二度と動く事はなかった。が、少年の手の震える理由、其の正体を私に一度に解らしめた。果たして其れは一匹の亀であった。

亀?
不運な其の亀は目的の地に着く前に無慈悲な少年の手により殺されてしまったのである。彼は、亀は鈍いので刺易いのだ。と嗤った。重い沈黙が続いた。彼は卒爾に嗤い出した。其れは乱歩の書いた、全てを明かされた兇徒に良く似ていた。少年にボールのように蹴られながら蹲る亀も中々哀れで凡そ七、八箇所の刺傷と硬直した手足に斜めの切傷を見せていた。何処もパックリ割れた傷口から夥しい量の紅い寒天が溢れ出て、弾けた西瓜に似た鮮血はアスファルトを一面の彼岸花に染めた。


西から生暖かな風が吹いた。風に流れて少年の掠れた声が聞こえた。
硬い甲羅は亀の亀たる所以なりや?こうにも容易く破れて仕舞えば此は只の醜い“カタブツ”ではあるまいか。
その声は震えて居た。先程の手の震えとは炯らかに異なっていた。そして聞こえるか否かの声で、何か呟き其れ以降口を開く事は二度と無かった。或いは、抑 私の幻聴だったかもしれぬ。彼は大笑を始めた。電柱に止って居たカラスが呼応し、気付かぬ内に進む日の傾きを感じた。


日も陽炎も弱まり、つい先程迄は短かった影も薄く長く横に伸びていた。陽は西の空を徐に血の色に染め私の左頬を照り付けた。紅く滲んだ右頬を鮮血に染めた少年は、何も言わず階段を登り始めた。それに釣られ私も部屋へと戻った。後に私は其の 亀 を見て居ない。少年が持ち帰ったのか、又誰かが拾って食ったのか。それとも亀自身実は生きて居り自らの足で寝床に帰ったか。亀自身が生きて居る、、、?斯かる話は元より私の幻想だったのだろうか。夢との錯謬?ともすれば余りにも惨憺たる仕打ちを、試練を与えたものだ。よもや、そうでは有るまい。言うなれば、子供の嗜むじゃんけんを以降、信じ難くなったと云った具合である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?