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自分の人生を生きることと、そういえば「ミッドナイトスワン」

「ママ、お料理上手なんですね~!いつもいろいろ作られてますよね…」

娘を保育園に送り届けたある朝、連絡帳をチェックした保育士さんに声をかけられた。

蒸しただけのかぼちゃを「かぼちゃサラダ」、ボウルにトマトと卵を突っ込んでチンしたものを「オムライス」など、かなり「盛って」「それっぽく」記載をしていることは否めない。でも、季節ごとの野菜を選んだり、献立を決めたり、包丁をにぎったりする作業はきらいじゃない。というか、むしろ好き。ほめられると、なんだかうれしい。えへへ。

「だから〇〇ちゃんも、ごはん食べるのとっても上手なんですね!いつも残さず、なんでもきれいに食べますよね」

うれしかった。そうかな。そうだったらいいな。

でもさ。親が料理上手だったら、子が好き嫌いなくなんでも食べるわけじゃないよなーーーと思うのだ。たとえ親がミシュラン五つ星料理人でも、子がアンパンマンのミニスナックしか食べないなんてありえるし、米すらうまく研げなくても、子が健啖家に育つケースもある。

親がこうしてあげたから(こうしてあげなかったから)子がこうなった、なんて、誰がはっきり言えるだろう。





去年、ミッドナイトスワンを観た。

「言っとくけど子ども嫌いだから」「帰ってくるまでに掃除しといてよ」と乱暴な言動を繰り返す凪沙は、一緒に暮らすうちに、一果のことを心配するようになる。一人にしたくない日は仕事場に連れて行く。朝は起こすようになる。ごはんを作ってあげるようになる。いただきますの挨拶を促すようになる。いわゆる「お母さん」だ。

しかし、そのときの凪沙は「誰のためにやってると思ってるのよ」というセリフを放つ。それに対する一果の返答は「頼んでないし」。

頼んでないし!

ほんとうに、そうなのだ。

もしも、凪沙がさらに自分のアイデンティティを捨てて、いわゆる「親」に無理やり自分を型はめしたら。たとえば、男として就職したら。きっと、もっと恩着せがましいことを言いたくなったのではないかと思うのだ。たとえば、一果がバレエのコンクールで優勝したら「スクールの月謝を稼いだわたしのおかげ」「バレエに集中できる環境をつくったわたしのおかげ」「食事に気を配って体型維持につとめたわたしのおかげ」。

でも、バレエで成功したら、それは一果の実力だ。凪沙のおかげではない。

人間、自分が犠牲になると、どうしても「わたしはこんなにやった」と言いたくなってしまうもの。そしてそれは、一瞬で「あなたのためにこんなにやってあげた」という恩着せがましさに変貌する。子にとっては迷惑な話だ。親がこうしてあげたから(こうしてあげなかったから)子がこうなった、なんて、誰にも言えないのに。

他の親と同じようにふるまうことをやめ、トランスジェンダーとしての自分を受け入れたあとの凪沙は、生き生きと、とても幸福そうに描かれている。ふたりがうまくいくようになったのも、凪沙が保護者としてではなく、ひとりの女として自分の幸せを追求する、と決めてからだ。

「わたし、あなたのお母さんにもなれるのよ」という終盤のセリフに胸を打たれた。子は親の成果ではない。それを理解して、世話をしつつ、サポートしつつも、きちんと自分の人生を生きる。きっとそれが「お母さん」だ。





母親になれば、自己犠牲を幸せと感じるようになるのかなあ、とぼんやり思ってきた。自分は我慢してもおいしいものを子にあたえ、髪を短く切ってヒールを脱ぎ、自己実現のための仕事や勉強はあとまわし。それでも子育てはきっと人生最高のヨロコビで、すべてを相殺してくれるのだと。

でも、全然そんなことなかった。わたしは、子育て以外にもまだやりたいことがたくさんあった。「お母さんの自己犠牲」は、24時間戦えますか時代のエライ人たちが生み出した偶像だったんだと思う。妊娠出産という「邪魔な」ファンクションを備えた女を、労働市場から締め出して、家庭に縛りつけるために。

ある人が言っていた。「一に自分、二に家族、三四がなくて五に仕事」。仕事は自分や家族がハッピーに生きられるようにするためにするもの。そして、家族は二の次。まずは自分を優先すべき。自分が幸せじゃないと、家族も幸せにできないから。家族のためにこんなに我慢してきたのに、と欲望にふたをしていたら、いつか爆発してしまうから。なにはともあれ、自分を大切に。

どんなに犠牲を払って子に尽くしたとしても、子は親の鏡なんかじゃない。だから、とにかく自分の人生を力強く生きる。ファッションも、映画も、読書も、人との交流も、仕事も、全部あきらめない。娘にはそっと寄り添うだけで、おたがいハッピーな人生が送れるんじゃないかなあ、と思うのだけど、どうだろう。

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