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映画「朝が来る」を観た。自分の傲慢さを思った

なかなか子を授からなかったので、養子縁組を考えたことがあった。結局、養子をとることは日本ではなかなかハードルが高く、不妊治療のほうが自分たちにとってはまだ手を出しやすく、運良く(200万円以上という「少額」かつ2年という「短期間」で!)体外受精で娘をさずかって、いまに至っている。

娘はいま、生後7ヶ月。「おかあさんに似てるね」と言われることもあるけれど、それが格別うれしいわけでもなく、かと言って「あんまり似てないね」と言われて傷つくわけでもない。血のつながりなんて子を育てていく上ではたいして意味のないことだよな、不妊治療、精神的にも肉体的にもめちゃくちゃ削られたし、養子もぜんぜんありだよな、日本でも養子を取るハードルがもっと低くなったらいいのにな、そんなふうに最近は考えていた。

でも「朝が来る」を観て、いかに自分が「強者」の目線でしか考えていなかったか、と反省した。育てる側は強者になりうるし、産む側は弱者になりうる。養子?いいじゃん!って言えるのは、結局、養子を「育てる側」で、わたしは「産む側」、子どもを養子に出した人がどんな気持ちでいるのかなんて、ぜんぜん考えたことはなかったのだ。

産む側と、育てる側の、圧倒的な非対称性。

まずは、お金。
養子を引き取る条件ってのはなかなか厳しくて、夫婦のどちらか片方は仕事をやめて育児に専念できる状態でなくてはいけない。つまり片働きでもずーっとこの先、少なくとも子が成人するくらいまではやっていける、経済的な見通しが立っていなくてはならない。比較的裕福な「育てる側」。それに引き換え、「産む側」。まだ学生だとか、支えてくれるパートナーや家族がいないとか、職がないとか、いろんなケースがあるけれど、結局のところは自分を食べさせるだけで精一杯なくらいの経済的成熟度、もっとダイレクトにいえばお金がない人が多い。

つぎに、時間。
産むまでにかかる時間はトツキトオカ。生まれてからそのあとは、育ての親のほうが圧倒的に子といっしょに過ごす時間が長い。だからしかたないのかもしれない、生みの親はどんなに「忘れない」と誓っても、子のことが頭から離れてしまう瞬間がある。「育てる側」はいつもいっしょにいるから子の年齢なんかもしっかり把握しているのだけれど、「産む側」はうっかり間違えてしまい、それを責められる。

それから、タイミング。
中学生で妊娠したこの映画の主人公は、まわりには病気だと偽って、遠くの病院でひとり出産する。家族や親戚に見下されて、大好きな彼は何事もなかったかのように進学して、分かり合える人は誰もいない。タイミングさえ合っていれば…、10年先、いや5年先だったら、好きな人とのあいだに子どもを授かるのって、すごくおめでたくて、すてきで、祝福されることのはずなのに。いっぽうで、養子を迎える夫婦は準備万端。「うちら親になる資格あるよね」と自ら胸を張って言う。

「お母さんは3人いるんだよ」「産んだ親、それを繋いだ親、育ての親だよ」
よく聞く言葉である。でも、お金がなくて、一緒に過ごしていなくて、子どもを養子に出さざるを得なかった「産む側」には口にすることができないセリフなんじゃないだろうか。映画中盤、「結局、育てる側が何もかも持ってて得してる気がする」とつぶやく妊婦が登場する。実際、そのとおりかもしれない。いまの世の中に厳然と存在する「生む側」「育てる側」その圧倒的な差を思うと胸がふさがるような気持ちになった。

ベストなタイミングで妊娠・出産した人、もしくはお金の余裕があって養子を迎えた人、そういう人しか幸せになれないんだろうか?親になる、ってそういうことなんだろうか?産んだ「だけ」の人は育児に参加してないから、親ではないんだろうか?産んだ「だけ」の人は、罪悪感に苛まれて、脛の傷をもてあましながら、残りの人生を生きていかなきゃいけないんだろうか?虐待のニュースが流れると「産んだだけではやっぱり親にはなれないね」なんてコメントが飛び交って、「生みの親より育ての親」という言葉もあって、でも本当はただ「産む」それだけでも立派に親なんじゃないだろうか。産んだ人は、ないがしろにされて、見下されてもいい存在ではないだろう。

この映画の生みの親の手紙に「なかったことにしないで!」という言葉が含まれている。「わたしのこと、忘れないで」という子へのメッセージであると同時に、彼にも育ての親にも子にも、いろんな人に忘れられてしまうかもしれない不安や絶望感、そんなものも強く叫んでいる気がする。


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