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世間不適合者よ、反抗せよ!

今の私は世間反抗期かもしれない。世間反抗期とは私の造語である。文字通り「世間に対して反抗する時期」という意味で使っている。

今回は「私なりの世間観」を語る。世間不適合者にとって何かしらのヒントになれば嬉しい。そんな有益なことは書けないだろうけど。


同調圧力の源、それは世間

私は昔から「みんなと同調しよう」みたいなノリが苦手、かつ嫌いだった。それでも小→中→高→大→会社員となんとかやり過ごし、世間でいう「王道ルート」を歩んできた。

しかし、王道ルートを歩む最中で「同調圧力への抵抗感」は着実に膨張していた。ついには、その抵抗感が爆発して退職を機に王道ルートから降りた。

王道ルートを降りてからは興味の赴くままに本を読んだ。その中の一冊、鴻上尚史『「空気」と「世間」』を読み、私は次の仮説を立てた。

自分が嫌悪してきた同調圧力の源は「世間」かもしれない

そこからは世間を疑い、世間の価値観を盲信しなくなった。これが世間反抗期の始まりである。

世間とは何か

ところで、私が嫌悪している「世間」とは何か。この問いだけで一冊の本が書けるほど重厚なテーマだ。私の簡易な解釈によると、世間とは「多数派」と「前例」が無批判に肯定される世界だ。

より専門的な話は、鴻上尚史『「空気」と「世間」』の解釈を借りて説明する。鴻上氏は社会との対比で世間を説明している。「社会=理性(文字や数式)が支配する近代化システム」とすると「世間=感情(義理や人情)が支配する人間関係」と捉えられる。「世間様に顔向けできない」とは言うが「社会様に〜」とは言わない。

ちなみに、英語が輸入されるまでは「社会(society)」という言葉も概念もなかったらしい。日本人は長い間「世間」の中で生きてきたが、西洋化を目指す過程で「社会」が導入された経緯がある。詳細はブログにて↓

世間のここが嫌い

私は「世間そのもの」というより「世間が醸し出す強制感」を嫌っている。往々にして、世間の住人は無垢な人々に世間の価値観を強制する。これは世間の住人が「多数派」と「前例」を異常に信仰しているからだ。

多数派を信仰する

「みんながやっていること」「みんなが言っていること」を信仰する。同調圧力下では多数派が絶対的な存在となる。少数派の意見はもちろん、多数派に疑問を抱くことすらも「悪」とみなされる。

同調圧力が恐ろしいのは、たとえ誤った思想や行動でも「多数派」になった瞬間に肯定される点にある。代表例はエスカレーターの片側を空ける風習だろう。張り紙や音声で「歩かないでください」と注意喚起されても、片側を空けるのが肯定されている。

最も悪しき同調圧力は「普通の生き方」というやつだ。世間では次の条件を満たす生き方が理想とされる。

  • いい高校、いい大学に行く(知名度重視。文武両道が望ましい)

  • 卒業したら就職する(大企業の正社員や公務員が望ましい)

  • 就職したら結婚する(?歳まで、との年齢制限付き)

  • 結婚したら出産する(定期的に孫の顔を見せる)

  • 出産したらマイホームとマイカーを(借金してでも)買う

  • 両親、義両親を気に掛ける(親孝行も忘れるな)

これらの条件を満たさない生き方は否定され、是正を促される。大学卒業後に無職だと就職を促され、ある歳を過ぎて未婚だと結婚を促される。

世間の理想に沿って生きたいと願うのは勝手だ。しかし、他者に干渉し、あげく世間の理想を押し付けるのは下品すぎる。本節の最後に村田沙耶香『コンビニ人間』の一節を紹介する。

皆、変なものには土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている。私にはそれが迷惑だったし、傲慢で鬱陶しかった。

村田沙耶香『コンビニ人間

「変なもの」とは世間の理想から逸脱したものだろう。私も「男のくせに無職」という「世間的に変な生き方」をしているので何かと干渉される。いやはや、本当に鬱陶しい。

前例を信仰する

とにかく前例を踏襲したがる。前例を踏襲するのが必ずしも悪いとは限らない。しかし、世間では「前から〇〇だから」という理由だけで肯定される。否定(反論)に対する肯定ではなく、無批判に肯定するのは検証不足と言わざるを得ない。

かつての大谷翔平も「前例がない」という理由だけで二刀流を批判されていた。しかし、今となっては誰が見ても大成功だ。これは一部の野球人により構成された世間が、大谷翔平の挑戦に干渉した悪しき例といえる。

前例が少ないという意味では「主夫」も同じだ。「主夫になる」と報告すると、私と妻に心配の声が寄せられた。心配する理由を尋ねても「女性が家計を担うのはねぇ…」とか「まさか自分の子供が主夫になるとは思わなかった…」など、取るに足らない返事ばかり。前例が乏しいのだから当然である。世間に浸かった人間は、理性的に物事を検討し自分なりの考えを持つことが苦手だ。彼らは世間が醸し出す空気感でしか物事を判断できない。

世間に反抗する

世間と取り合うのは時間の無駄?

世間の住人と「話し合い」を試みても無駄かもしれない。彼らは壊れたロボットかの如く「ミンナガイッテルカラ」「ゼンレイガナイカラ」を連呼するだけである。いくら話し合っても、独自の考えを聞けることはない。

世間反抗期があっても良いのでは?

私は世間に辟易している。「世間的な正解」には疑いの目を向け、逆に自分が納得すれば「世間的な不正解」でもお構いなしに肯定する。

こんな「世間知らず」な生き方をしていると、いつか後悔するかもしれない。しかし、それでも構わない。思考停止で世間の価値観を肯定し続ける方がよっぽど恐ろしい

世間を無視して悲惨な結果になれば悪いのは自分だ。しかし、世間に従った結果として失敗すれば、一体誰を責めれば良いのかわからなくなる。「世の中が悪い」と言うのは容易いが、それで問題は解決しないし、なにより自身の納得感を得られない。

世間を盲信するのは人生の主導権を世間に委ねる行為といえる。つまり、世間がもたらす結果を(良くも悪くも)受け取るだけの人生になる。世間と自身の価値観が偶然にも近ければ、それで良いのかもしれない。しかし、私の価値観は世間とは違う気がしてならない。

世間不適合者よ、反抗せよ!

世間不適合者は無理に世間に適合する必要はない。世間に反抗しても良いのだ。最後に、私が世間に反抗した具体例を紹介する。

文字面を追うと「思想強めのアウトロー」感がある。私は感情を排して理性的にならないと文章を書けない。現実にはもう少しマイルドなので、ドン引きしないでもらいたい笑

若くて健康でも働かない

私は若くて健康だが賃金労働をしていない。働く必要がない上に労働意欲もないからだ。

参考:「働かない人はずるい」と嫉妬するなら専業主婦・主夫になろう

結婚しても親戚付き合いをしない

私たち夫婦は「結婚」を特別視していない。「一緒にいられさえすればなんでもよい」と考えている。どうせ一緒にいるなら、結婚した方がお得(節税や福利厚生)だから結婚したまでだ。

ゆえに「お互いの義家族と付き合う義務はない」とのルールを設けている。私は「妻」を愛してはいるが「妻の家族」には特別な感情がない。妻もまた同様であろう。

参考:義家族と付き合わなくて何が悪い?会いたくないなら会わなくて良い
参考:【体験談】専業主夫は義理の両親への結婚挨拶をどうするべきか
参考:結婚式をしない率直な理由。親不孝でも非常識でもやりたくない。

いくら少子化でも出産をしない

私は反出生主義者ではない。しかし、出産はギャンブル的行為と考えている。現時点でギャンブルに興じる気はない。

参考:反出生主義は正しすぎる?反論は?私が子なし夫婦で居続けたい理由

親孝行は既に終わっている

「人は皆、生まれた時点で親孝行を完了している」と考えている。世間でいうところの親孝行なんて不要だ。誤解なきよう付しておくが、両親とは仲が良い。

参考:いつまで親の言うことを聞くべき?親の言うことを聞きたくない人へ

何がなんでも飲み会に参加しない

学部生時代の研究室の話。卒業研究の発表後に先輩たちが「卒研おつかれ会」を企画した。しかし、私は「家でゆっくりしたいので」と参加を拒否し、ひとり帰路についた。

参考:【嫌われない断り方】研究室の飲み会に行きたくない人へ。


以上。無駄に長いのに、ここまで読んでくれた物好きの皆さん。ありがとう。

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