掃除好きと思いきや、実は「綺麗好き」だった話
自分は掃除が好きだと思っていたが、実は違うかもしれない。
結論から言うと「自分の空間がキレイであることが好き」なのであって、掃除という行為自体が好きなわけではない。
家事としての掃除
私は専業主夫として、日々自発的に掃除をしている。妻が望む以上の頻度と品質で徹底的に掃除を行っている。頼まれたわけでもないのに掃除をしているのだから、てっきり自分は掃除が好きな人間だと思い込んでいた。
掃除をしている最中は目の前の作業に没頭できて良い。体調が悪くても(洗濯や炊事は妻に任せて)掃除だけは自分でやりたいという気持ちがある。主夫になってからは高熱を出した数日を除き、朝の掃除を欠かしたことがない。少なくとも、掃除が「嫌いではない」のは確からしい。
ホテルの部屋を掃除するか?
しかし、ホテルの部屋を自発的に掃除することはない。ベッドの上で菓子を食べるし、洗面台に飛び散った水滴も放置する。「汚れても気にしなくて良い快感」すら感じる。
もし本当に掃除という行為が好きならば、ホテルでも掃除をするだろう。ベッドの上に落ちた菓子の食べかすを喜び勇んで取り除くはずだ。なんなら、コロコロと雑巾を持参して、絨毯を掃除したり、テーブルや洗面台を磨いたりするはずだ。
しかし、実際にはホテルの部屋を掃除しないし、掃除したくもない。だとすれば、私は「掃除が好き」とは言えないのではなかろうか。
自分の家が汚れたら?
掃除は「汚れ」がないとできない。「汚れ」は掃除の基本的な前提条件である。本当に掃除が好きならば、汚れの存在を喜ぶべきなのだ。
しかし、私は喜べない。自分の家が汚れていたら嫌な気分になる。特に他者に汚されると、その嫌悪感は増強される(嫌悪を感情的に表明しないよう、注意している)。
ここまでくると、私が掃除が好きではないのは明らかだ。ジュースをこぼした友人に「汚してくれてありがとう!おかげで掃除ができるよ!」と感謝できないのであれば、掃除好きを名乗ってはならない。
「綺麗好き」と「掃除好き」は違う
私は「掃除好き」ではなく「綺麗好き」である。より正確には「自分の空間が綺麗であることが好き」なのだ。
自分の空間とは「自宅」「自室」「会社の自分のデスク」「自分のバッグの中」など、自分の管理責任が持続的にある場所を指す。ホテルやカフェのテーブルは、一時的に管理下にあるだけなので気にならない。
もし仮に、自宅が一切汚れない仕組みや完璧な掃除ロボットがあれば、私は掃除をしないだろう。そして、もう掃除ができない悲しみを味わうことも、おそらくない。
まとめ
私は「掃除好き」を自認・自称してきた。しかし、実際には「綺麗」を体現すべく、仕方なしに掃除をしているだけだった。
「綺麗」が好きなので、今後も変わらぬ頻度と品質で掃除をするが、掃除は手段であることを念頭においておきたい。
(余談 of 余談)
私は「自分の管理責任が持続的にある場所」は綺麗に保ちたいが「一時的に管理下にある場所」にはこだわりがない。これを拡大解釈すると「この世界」に対して持続的な責任を感じていれば、今の世界を信頼し、自分が死んだあとの世界にも希望を見出せる。一方で、一時的あるいは限定的な責任しか感じていなければ、今の世界に対して諦念を抱き、世界の未来に対しても無関心になる。今読んでいる本の内容と(無理矢理)つなげて考えてみた。