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生きること、人類学をやること。

「どうして人類学をやりたいの?」

とある人類学者の方と話しているとき、こう問われた。

お話してみたかった方と話すことができる貴重な機会だったので、僕はただでさえ緊張していた。
その場では、咄嗟に考えながら、「自分が人類学をやる理由」をいくつか並べて見せるだけで、陳腐な答えを出すことしかできなかった。

僕が人類学をやる理由とは何だろう。

学部の時から触れたことのある学問ではあり、身近に人類学者も居たけれども、自分が人類学研究をやる理由をちゃんと突き詰めて考えたことが無かったような気がする。それでも、人生って何事をやるにもそんなもののような気もする。

この手の質問は、学問に限らず、あらゆる事柄に関して、気軽な話題で、よくある質問なのだろうと思う。

どうしてその学校に行ったの?
どうしてその国に留学したの?
どうしてその街に引っ越したの?
どうしてその仕事を選んだの?

日頃から投げかけられるそれらの質問と何ら変わらないはずだ。

もちろん、質問の意図まではわからない。
でも少なくとも、その質問に答えさせることで、僕を評価したり値踏みするためのものではなかったと思う。利害関係もないし、その方がそうする理由はどこにもなかった。

たぶん気軽な質問で、意図はなかったのだろうと思う。

あるいは、学問をやっている先輩として、問いかけを通じて僕に考える機会をくれたのかもしれない。そういうつもりで心に留めて考えておこうと思う。

僕が人類学をやる理由。

僕がこれをなんとかして言葉にしようと語るとき、そのうちのどこからどこまでが生きることで、どこからどこまでが人類学をやることだろうか。

そして、そもそも僕はこの学問を理解できているか。

いや、一生の時間を懸けてしても上手く説明できるかは怪しい。

「綺麗に整理して言葉にして説明しなければならない」という、顔も見えない誰かからの強迫と、「そんなものは無視して曖昧なまま抱えていていいんだ。考えることに意味があるんだ。」という赦しのせめぎ合い。

わからない。

とりあえず僕は人類学をやってみるのだ。

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