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御嶽[おんたけ]神社 (埼玉県久喜市本町)


御嶽おんたけ神社は唐突に

 前回、久喜市『南』の御嶽神社をご紹介した際に、久喜市『本町ほんちょう』にもあるとサラッと触れました。

 久喜市南の御嶽神社は、目的地の途中にマップで見つけたのでお伺いしましたが、
 久喜市本町の御嶽神社はマップも見ずに辿り付いてしまいました。たまたま道をれてみたら「え?ここにあったの!?」という。
 はてさて、呼ばれましたかな?「片方の御嶽神社で満足するんじゃない!」って(笑)

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教えて!Wikipedia先生!!


久喜地区での御嶽神社は、この御嶽神社が1887年(明治20年)に南埼玉郡久喜本町(明治合併後、南埼玉郡久喜町大字久喜本字荒鎌)に祀られたのが始まりであり、その後、大字久喜新字新町の御嶽神社(今日の南1丁目の御嶽神社)が1894年(明治27年)より祀られるようになった[1]。

[1]『平成19年度 久喜市市民大学 大学院研究論文集Ⅰ 久喜市神社と神域の護持像、狛犬の調査(145ページ、152ページ)』 久喜市市民大学 発行 平成20年2月16日 発行

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/御嶽神社_(久喜市本町)

境内施設として本殿、鳥居、「御嶽教 寿幹教会 御嶽神社」と彫られた標柱、樫の木(御神木)、灯籠、狛犬(1988年(昭和63年)11月奉納)、「御嶽教寿幹教会社殿再建記念碑」と彫られた石碑、「道展霊神」と彫られた石碑、「森吉霊神」と彫られた石碑、「吉瑞霊神」と彫られた石碑、「賢心霊神」と彫られた石碑、「祐心霊神」と彫られた石碑などである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/御嶽神社_(久喜市本町)

 こちらが明治20年、久喜市南の方が明治27年に鎮座されました。
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外観


御嶽神社の社号標(右)と樫の木(左)

 Wiki先生には標柱しめばしらとありますが、神社関連の記事では社号標しゃごうひょうと記載することが多いですね(標柱は門のように2本1組にしているものを指すことが多いらしい)。
 社号標には御嶽教おんたけきょう 壽幹じゅかん(?)教会きょうかい 御嶽神社』と刻まれています。御嶽教 寿(壽)幹教会については後ほど資料を載せます。

鳥居に近づいてみた

 手水舎はなく、鳥居を潜ったら割とすぐ社殿。必要なものだけを揃えた潔い神社(※個人の感想です)。

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社殿と狛犬


一対の狛犬
うん形の方は、狛犬(小)を抑え
形は鞠を抑えている

 狛犬の足元に何かあるのは、今まで気にしたことがなかったです。調べてみると向かって左の吽形は「子取り」子孫繁栄を、右の阿形は「玉取り」家運隆盛の意味があるのだそう。狛犬は神域の門番として見ていたので、更に役割を足されているとは……お疲れ様です(笑)
 社殿の扉は格子状ですが、ほぼ全ての格子にガラスか何かが嵌め込まれております。お賽銭箱はこの社殿の中にあるので、最下段の中央2つ分だけ嵌め込みがなく、お賽銭を入れられるようになっています。

御嶽大神の額

 そういえば、久喜市南の方は社殿もお賽銭箱も狛犬もなかったのでなんだか不思議。色んな御嶽神社の形態があるんですね。
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御嶽教寿幹教会社殿再建記念碑


石碑に狛犬が反射しています

 この石碑に、神社の縁起が刻まれています。
奉斎ほうさい主神……言い方カッコイイですね!(奉斎:神仏などを慎んで祀ること『コトバンク 精選版 日本国語大辞典』より)
 ウェブで探すと大本おおもとの御嶽教が
国常立命くにとこたちのみこと大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなひこなのみことの三柱の大神を『奉斎主神』として挙げていました。

 御嶽教寿幹教会については、石碑に丁寧に記載されていますので載せてみます↓

寿幹教会の発祥は明治十五年御嶽教が創立されたのに始まり 創立者の一人永濱周吉氏により同十九年初めて当地に寿幹教会寿幹講社が創立され 氏自ら会長講社長となり、同二十年社殿が建立されました。 爾来じらい御嶽大神の奉祀により多くの信者の崇拝を集め御嶽信仰が盛んになりました 大正八年会長の逝去により永濱賢象氏二代会長講社長に就任 御嶽信仰一筋布教発展に尽力しました 昭和四十二年二代会長の逝去により 長濱英勇氏三代会長に就任しましたが 創立以来の社殿は度重なる修復を行うも星霜せいそうを経て老朽化著しく 昭和五十九年一月社殿再建に着工同年六月本殿拝殿を竣工建立し 同六十年四月鳥居を建立しました
社殿前の霊神斎場には教会創立以来の篤実な信者が教会霊神として奉斎してあります
道履霊神 永濱周吉 賢心霊神 永濱賢象 
森吉霊神 矢島森吉 吉端霊神 濱田吉兵衛 
祐心霊神 武井祐助 右 再建記念により建碑します
昭和六十年四月吉日
         教会長 永濱英勇再拝

御嶽教寿幹教会社殿再建記念碑

 御嶽教のウェブによると、御嶽教が教派神道(神道十三派)の神道御嶽派として特立したのが明治15年9月28日、『御嶽教』と改称したのが同年11月6日とのこと。ただそこでは永濱周吉氏の名前を発見できず。ネット上でも寿幹教会・寿幹講社についての記事はなかったです。
 埼玉苗字辞典では永「浜」でヒットあり。ただこの文書がどこに記載があったのかが不明。

永浜 ナガハマ 明治九年久喜本町副戸長肥料商柏屋永浜周吉・安政元年生あり。二戸現存す。

埼玉苗字辞典

 戸長こちょうは明治前半の行政の役人で、従来の庄屋・名主などから選ばれた小区の長。
 久喜市の教育部・文化推進課の『永濱家文書ながはまけ もんじょのページでは

 永濱家は、元禄時代から久喜町に居住した旧家で、村役・町役・戸長・町長等を務めました。

久喜市市役所ウェブページ

と記載がありました。元々この地域の名家だったんですね。
 実は前回取り上げた「榎本家」も、同じように戸長などを受け持っていたと記載がありました。


 安政元年が1854年で、明治19年(寿幹教会寿幹講社の創立、会長講社長就任)が1886年ですので、この記事通りであれば32才で会長講社長になった計算です。ヤバい若い。すごいなぁ……。
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霊神碑の数々


道履靈(霊)神碑
wiki先生になぜか「道霊神」と書かれてしまっている
訂正の必要がありそうです
碑の裏には
永濱周吉氏が寿幹教会を創立したことや
会長として尽力したことなどが刻まれている
右から2列目の文
明治廿二(二十二)壽(寿)幹教會(会)創立
とある。はて?


賢心霊神碑
二代目会長講社長
永濱賢象氏
大正8(1919)年から50数年 教会会長を務めた


森吉霊神碑
台座向かって右側に 明治卅二年(欠損 一?)月五日
向かって左側に 権(?)少教正 ⬜︎ 真(?)根命

 石碑に刻む字って、紙に書く字と変わっちゃうので本当何て書いてあるかわからない💦
 『権』(だと思っている)字は、久喜南の『一守護神大権現』の『権』と同じに見えるのと、
「権少教正」という役職が、明治に宗教官吏として設置された「教導職」の中にあるから(と調べて初めて知りました)。
 『真』の字は、異体字で『眞』の『匕』部分を『十』にした字が一番近いかなぁと。その上に書いてある字はお手上げ。『久』と読めそうだけど、次の字と隙間がある理由がわからないし、そもそも本当に『久』か?

矢島森吉氏についての石碑
私の読解力不足で
寿幹講のおやってことしかわからない


吉瑞靈神碑
濱田吉兵衛氏 熱心な信者だったよう
『教導職補訓導』にある訓導も教導職の役職の一つ
『補訓導』で訓導の役職に就く意味のようです


祐心靈神碑
武井祐助氏の石碑
この方も森吉氏と同じように
『本講先達』だそうです

 森吉霊神の碑で「教導職」に気付きましたが、石碑の全員に役職が刻まれていました。
永濱周吉氏(道履霊神) : 教正 (ただし教正は大中少などがある。永濱周吉氏は不明)
永濱賢象氏(賢心霊神):少教正
矢島森吉氏(森吉霊神):訓導
濱田吉兵衛氏(吉瑞霊神):訓導
武井祐助氏(祐心霊神):権大講義

 国政の教導職自体は明治17年に廃止されていますが、教派神道などはそのまま役職名を使っていたようです。

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御神木 樫の木


立派な御神木
久喜は割とでかい木が多い気がする

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何事も多角的視点が大事(真理)

 御神木を撮影して神社を出て、しばらく歩いてふと気付いたんです。
 境内、もっと奥まであるんじゃね?

 戻ってきて、社殿に向かって右側が充分通れることを確認したので、奥に進んでみました。

確かに再建記念碑にも書いてあったね
本殿拝殿を竣工建立』って

 正面から見えていたのは拝殿だったんですね。
奥に立派な本殿がありました。

ちゃんと通路がありました
我々は入れませんが

  拝殿だけ見て、本殿見そびれるところだった……
何しに行ったん?ってなるところでした。よかったよかった。

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雑談 世にも奇妙な


 ここで、本筋から逸れますが、今気付いたことをお知らせします。
 どうぞ、本殿を納めた写真右上にご注目下さい。

なんか 飛んでる

 世の中には まだまだ知らないこと たっくさんあるんだねぇ(すっとぼけ 笑) 
 これが何かわかる方 ぜひ教えてください!

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おわりに

 本当今回思わぬ(道との)出会いから始まった神社訪問でしたが、じっくり堪能できて良かったです。ちゃんと本殿も見れましたし!
 前回もそうでしたが、今回の御嶽神社は特に寿幹教会という組織を通じて、明治時代という歴史を学ばせてもらった印象が強かったです。うまく言えないんですが、書物上の歴史ではなく、人と共に生きていた歴史というか。
 2箇所の御嶽神社を訪れる機会に恵まれて、ふと自分の地元の神社を見直すのも面白いかもしれないなぁと思いました。

 それでは、今回もお付き合いいただきありがとうございました!また次の記事でお会いしましょう。 

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