馬に乗って感じた「ゆたかさ」の正体
例えば美味しいものを食べたときや、ちょうどいい温度のお風呂に入ったとき。「しあわせ~」は口にしやすい言葉だ。
しかし、私はいまだかつて「ゆたか~」と言っている人に出会ったことがない。
これって、「ゆたかさって何だろう」と考えるときの、大きなヒントになるのではないだろうか。ゆたかさってリアルタイムで実感することが難しいもの。そんな仮説を立ててみた。
あれは確かに「ゆたかさ」を感じた出来事だった
自分にとって「ゆたかさ」を感じたときを思い出してみた。真っ先に思い浮かんだのが、昨年の夏、八ヶ岳へ家族旅行へ行き、「森林乗馬」を体験したときのことだ。
家族全員が乗馬初体験。一頭にひとりずつまたがって、乗馬クラブのお姉さん、小2の息子、小5の娘、私、夫、と、5頭が連なって、森林の中を小一時間散歩した。
お腹を足で蹴ると「進め」。手綱を手前に引くと「止まれ」。右の手綱を引くと「右へ曲がれ」。左の手綱を引くと「左を曲がれ」。そう馬に指示しながら、家族で列をなして歩いた。
馬の背中で揺られながら、木洩れ日と清々しい空気の中、パカパカと蹄の音と共に進む。前には子どもたちがぴょこぴょこと足で馬のお腹を蹴っているのが見える。後ろからは、夫が乗る馬の蹄の音がする。私はそのとき、涙が出そうなくらい幸せだ、と思った。今思い返すと「幸せ」よりも「ゆたか」という言葉の方があのときの感情にぴったりだと感じる。
どうしてそう感じたのだろうか。
「ゆたかさ」の考察
「森林乗馬」がどうしてそんなにゆたかだと感じられたのか、考えてみた。
①単純に、「馬の手綱を自分で握って乗り、森林を散歩する」という行為自体が最高に心地よく、楽しかったから
②家族と非日常を分かち合えたから
③この森林乗馬を含む旅行費用を、私の収入から出したから
こう書きだして考えてみると、③の要素もとても大きい気がする。森林乗馬をするに至るバックグラウンドだ。夫の収入からの家族旅行でも、十分楽しかっただろう。でも、もしかしたら「ゆたかだ」という感覚は湧いてこなかったかもしれない。
「自分が満足する方法で稼いだお金をぽんと使うことで、大切な人と一緒にいい時間を味わうことができた」
このゆたかさは、新卒で勤めて、毎月定額で給料をもらっていた会社員時代には感じえなかったことだ。
稼ぐことの意味
私は独身時代正社員として働いていた会社を辞め、地方の夫の元へ嫁ぎ、子どもができた。仕事を辞めて初めて、自分に「働きたい」という気持ちが強くあることを自覚した。働くことで、社会と繋がりたいという気持ちになるだなんて、当たり前のように働いていた独身の頃には想像もしなかった。
私が仕事がしたいと言ったとき、夫の考えは明確であった。
「働くことは否定はしないが、子どもがいちばん。外での仕事量と、内での仕事量が、夫婦間で釣り合いをとっていけるような働き方がよい」
つまりは…夫が仕事7、家庭3で時間や労力をかけるなら、私は仕事3、家庭が7だ。私の仕事が忙しくて仕事5、家庭5のときは、夫の中の割合も仕事5、家庭5にすればよい、ということ。私は、自分の中で仕事と家庭の割合を調節できる働き方を探し、整理収納アドバイザーの資格を取得して開業する道を選んだ。
開業から4年、ご依頼いただくことも増えたとはいえ、収入は正社員時代の数分の一だ。でも、自分で集客し、お客様のお役に立てた報酬としてお金をいただいているという実感が強く、日々の仕事にやりがいを感じている。それに、働き方を模索してたどりついた仕事で稼いだお金は、とても価値があるような気がするのだ。
何に使うか
そして、稼ぐだけでは「ゆたかさ」は感じられない。安心にはつながるかもしれないが、使って初めて「ゆたかさ」を感じられるのではないかと思う。
私が開業することを決めたときに、夫が言ったセリフが印象的だった。
「生活のベースラインは、俺の給料でまかなえるように頑張るから、智子は、プラスαの部分を稼いでくれ」
夫が柄になくカッコ良さげなことを言うから、私は調子に乗って「私の収入から旅費を出して、年に一度、家族旅行をする」ことに決めた。そして実際、家族旅行に3回行った。
私の稼ぎからすると、とんでもない割合の金額を旅行につぎ込んでいると思う。もし私の事業の発展を願う経営コンサルさんがいたら、きっとこっぴどく叱られるだろう。でも年に数日の「贅沢旅行」は、間違いなく、家族にとっての大イベントになっている。浮かれた家族の様子を見ていると、いいお金の使い方をしたなぁと思うことができるのだ。
身の丈以上の宿に泊まり、身の丈以上の食事をし、身の丈以上のレジャーをする-その中のひとつが「森林乗馬」だった。
この身の丈以上、というのがよくて、お金持ちの人が体験するよりも、数倍も「ゆたかさ」を感じられる自信がある。大変お得だ。
誰と味わうか
そしてこの旅行中、夫と子どもたちが、私が支払いを済ませたタイミングでいつも、「ママ、ありがとうございます」と大げさに私に向かってお辞儀をしてくれるのが恒例の風景になっている。
チェックアウトの前にも「ママ、ありがとうございます」
居酒屋でご飯を食べた後にも「ママ、ありがとうございます」
もちろん、森林乗馬の後にも、深々とお辞儀をしてくれた。
茶番だと分かっていても、とても嬉しい。こういう家族が、私が払った金額を、何倍もゆたかなものに変えてくれているのだ。
「ゆたかさ」の定義
今回、森林乗馬の思い出を振り返って分かったことは、「ゆたかさ」は、ある瞬間を表現したものではなく、その状態に至る過程すべてをひっくるめての総称なのだ。点ではなく、線。もしかしたら面かもしれないし、立体かもしれない。
森林乗馬は、働く喜びを感じながら手にしたお金で、大切な家族と行った旅行先での特別な体験だったから、「ゆたかさ」を強烈に感じたのだ。
そう思うと、これから生きていく中で、お金に限らず、手に入れる色々なものの、その過程にも意義を見つけたいなと思うようになった。
モノも、時間も、人間関係も…辛い思いをして手に入れたものにはあまり「ゆたかさ」は感じない。納得して手に入れて、大好きな人たちと味わうからこそゆたかだと思えるのだ。
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