見出し画像

その犬は頭がよくて、思いやりがあった。 心が弱かった。 考え方がすごかった。

魅力的な文章が書きたい。

文章を書くことで多少なりとも報酬を得ている身としては、切実な願いだ。正しいことをきちんと論理的に伝える文章は、練習すればそれなりに書けるようになるけれども、私が憧れるのはそのようなものではない。

たとえ文法的にはちぐはぐな部分があったとしても、なぜだか心惹かれ、ずっと記憶に残るような文。

すぐれた小説家やエッセイストたちが紡ぐそのような文章は、凡人の私がどんなに努力しても生み出すことはできない。

ところが。
そのような文章を書く人がいた。私のごく近くに。
小1の頃の息子だ。


息子の書く支離滅裂で魅力的な文章

息子が受講していた通信講座の「ならった漢字から好きなものを選んで文章をつくろう」という問題。

彼の書く文章は、全くもってデタラメだった。

画像1

体のいちぶの顔と頭と首で
文字と本名を書いて、
車の中で音楽をきく。

世界びっくり人間ならやり遂げてしまいそうな
この不思議な動作。

めちゃくちゃな文章なのだけど、
爽快な読後感に似た感情を抱くのはなぜだろう。

出入り口をさがす思考力をつかって、
心の中でわた毛がとんでるのを見る。

どこか哲学的な香りのするこの文章。
綿毛は何の比喩なのだろう…
じっと心の目で見つめる静寂感がある。

休日の正月でおとし玉をもらって、
みたら一万円で、
王さまだ、と思って、
糸に一円をつるして犬をよぶ。

多額のお年玉をもらった子どもが「王様だ!」とはしゃぐ様子。
そしてそこから不思議な方法で犬を呼ぶという急展開。


この「漢字を使おう」作文をいたく気に入った息子は、提示された順に、すべて使って文章を作ってみようと試みた。

画像2

文字と本名を正しく書いていたら、
ほめられて1万円をもらって、
玉いれをするまねを
王様になりきってからして
家を出て、また入ってきた。

どうして王様になりきって玉入れをする「真似」をするのか…
なぜ家をでて、またすぐ入ってくるのか…

このちょっと間抜けでせわしない「王様」は、寺村輝夫氏の「ぼくは王さま」シリーズを彷彿とさせ、妙に魅力的に感じる。

上を見たら、
きょうは休みだとおもってうるさい音を出して、
車にのって、
糸で犬をよんできて、
毛がボアボアしていた。
首が長かった。
顔がデカかった。
その犬は頭がよくて、思いやりがあった。
心が弱かった。
考え方がすごかった。

なぜだか息子は糸で犬を呼びたがる。
そして呼んできた犬が、もののけ姫のシシ神様をどこか思い出させる、神秘的な存在なのだ。


この描写は、私にはできない。
絶対できない。

息子にあって、
私にないものは何だろう。


成長したら失うもの

息子には、特殊な文才があるのかと期待した。
もう少し大きくなって、単語の意味を知り、文法を知り、日本語を操れる術を身に着けたなら、うっとりした文章を書けるようになるのではないか、と。

しかし小4になった息子は、全くもって普通の「正しい」文章を書くようになってしまった。

こうやって、学校で学んでいくのだものね。
それが「成長」ってやつか。

写真 2021-06-27 6 56 13


私はと言えば…

ライターとして少しでも成長できるよう、文章術の本を読み、講座に出席し、すぐれた書き手の書いた文章を参考に、「スキルアップしよう」としてきた。

逆に、チームで後輩ライターさんの伴走係をいうお役目を授かった私は、
「こう書けば、話し手の意図が伝わりやすい」
「文末はこうした方がいいかも」
そんな偉そうなアドバイスをしたりする。

それって、息子が学校で「正しい」国語を習って「成長」したのと同じことを、新人ライターさんにしているのかも…。

社会で役立つスキルを身に着けるという意味では、どちらも必要な過程だ。
でもある意味、魅力的な「元々の書く力」を剥いでしまっていることに他ならない。

そして、その「過程」を経て、子どものような自由な文章を書きたくなるというのも皮肉なものだ。

画家が、精密な描写の技術を手に入れ、
抽象的なものに向かうのと同じような流れなのだろうか。

一度知ってしまうと、知らなかった自分には戻れない、とよく聞く。

「正しい」技術を極めたときに、その先の「自由でのびやかな文章」への
ヒントが見えるのだろうか。

毛がボアボアしていた。
首が長かった。
顔がデカかった。
その犬は頭がよくて、思いやりがあった。
心が弱かった。
考え方がすごかった。

何度読んでも、このデタラメさは大変に魅力的だ。

一周回って、私もいつか
こんな文章を書けるようになりたいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?