我が子がボルダリングにハマったら
親バカ、とはよく言ったものだ。
大抵の親は我が子に対してバカであるが、そこにスポーツが絡むと、そのバカの度合いが倍増する。全国大会に出場するほど能力が秀でているわけでもない我が子をこんなにも真剣に応援し、一喜一憂できるのだから、スポーツというのはものすごい魔力を持っている。ボルダリングに励む息子を持つ私は、まさにその魔力に取りつかれているようだ。
水を得た魚ってこのことか
今年小3になる息子が、近所のボルダリングスクールに通い始めて丸2年が過ぎた。
この子は小さなころからとにかく、慣れない場所やことがダメだった。
幼稚園の入園前の運動会では、かけっこが嫌で嫌でスタート時点で石のようになり、しょうがないから私が抱っこして走ろうとしたら、うずくまってこなきじじいのように重くなって固まり、私は抱き上げることもできず、息子にはこんな特技があるのかと驚いた。
入園してからも、かなりの日数、幼稚園バスに乗る前に泣き出し、私にしがみついて離れない手を先生に無理やり引きはがされて、乗せられていった。私のTシャツは何枚もビロビロに伸びてしまった。
幼稚園の講堂を借りて行う体操教室でも、最初のうち、息子は本当に何もしないので、しょうがないから私も一緒に息子の隣で「かーにさん!かーにさん!」と言いながら、かにさんスキップをした。園児の中にひとり混ざってかにさんスキップをしている自分が無性に悲しくなり、息子がやるというもの以外は、やらせるのはやめよう、と思った。
そんな息子が。
年長さんの秋ごろ、テレビか何かで見かけ、「ボルダリングがしたい」と言い出した。自分から何かをしたいなんて言うのは生まれて初めてだったので、私はもうそれだけで浮かれてしまったのを覚えている。一度体験に行って、更にボルダリングの魅力に取りつかれた息子は、スクールを習い始められる1年生になるのを、今か今かと待ちわびていた。
週に1回のスクールの日、息子は本当に生き生きと登っていた。「好き」とはこういうことなのかと、私は心底驚いた。今まで息子が泣いたり、私のそばから離れなかったのは、好きじゃなかったからなんだ。そんな単純なことに、私は上の子から数えると、子育てを10年ほどやっていて初めて気づいた。
半年後、コンペ出場を目指すアスリートクラスに誘われ、編入した。
涙の連続
アスリートクラスに移って息子が気づいたこと。強い子はたくさんいること。
キッズコンペに出場して息子が気づいたこと。もっと強い子もたくさんたくさんいること。
コンペに出場する息子を見て私が気付いたこと。戦うのはあくまで息子で、親は応援しかできないこと。
最初の頃、息子はコンペでよく泣いていた。
課題がクリアできないと、悔し涙が溢れてしまうのだ。背が小さいがゆえに、スタートにすら手が届かない課題もあった。肩を震わせて泣きながらも、また次の課題へと並ぶ息子を見て、私も夫も泣いていた。
少し大きなコンペで、場の雰囲気の飲まれて、心も折れてしまい実力が出せずに終わったときは、息子は泣き叫びながら地団太を踏んだ。絵に描いたようなきれいな地団太だった。ゼッケンをぐちゃぐちゃに丸めて投げ捨て、車でずっと泣いていた。
コンペで思うように登れないことで、ボルダリングが嫌いになったらどうしよう。やっと好きなことを見つけられたのに。息子の背中を見て、私は苦しくなった。
でも、息子はボルダリングを嫌いにならなかった。泣き止んで、お店でちょっと岩っぽい壁を目にしたら、やっぱり登れるかチェックしてしまう癖は健在で(ボルダーの習性のよう)、私は安堵した。
好き、は、悔しい、に勝った。
スポーツは人を成長させる
息子は、小さな大会で優勝することもあった。
一人ひとり順番に登る決勝では、観衆が見守る中、失敗しても失敗しても、4分間チャレンジし続けるという強い心も育ってきた。
私は決勝を上の子の送迎の都合で会場で応援できなかったから、夫にテレビ電話で映像を送ってもらい、駐車場で涙を流しながらタブレットを見ていた。かなり怪しい中年女性だったに違いない。声が届かない応援もあるのだとこのとき気づいた。
たくさんの歓声や溜息の中でトライし続ける息子は本当にかっこよかった。
あの、いつもママのそばで泣いていた、小さな息子はどこかへ行ってしまったのかと思うほどだった。
でも…
私たち夫婦が一番嬉しかったのは、「ちょんちょん」ができたとき!
ボルダリングコンペのセッション方式と呼ばれる予選では、自分が登りたい課題のところに並び、最後の人は最後尾を知らせる旗を持って、自分の順番が来るのを待つ。自分が列に並ぶときには、その旗を受け取るのだが…息子は…どうしても…この「旗ちょうだい」を前の子に言うことができなかったのだ。百歩譲って、言えないにしても、肩をちょんちょんとすればいいものを、それもできない。背後霊のように、ただただ突っ立って、前の子が気づいてくれるのを待っているのだ。
私も夫もじれったかった。なぜあんなにかっこよく登るのに、「ちょんちょん」ができない!?
それが、2年生も終わりが見えて来たころのコンペで、初めて「ちょんちょん」ができた。「ちょんちょんした!ちょんちょんできた!」私と夫は手を取り合って喜んだ。おかしなことだと思うが、人と関わるのが苦手な息子が、知らない人に意思表示をできたということだけで嬉しかった。ボルダリングに励む息子の「ちょんちょん」で感動するだなんて、親バカ以外のなにものでもないだろう。
スポーツをする我が子を応援するということ
スポーツは素晴らしい。見る人に勇気をくれる。プロの技というのは、見とれるほど素晴らしいし、デットヒートを繰り広げる試合は、大変な興奮をもたらしてくれる。選手の感動秘話などを見た日には、もう涙なしでは見られない試合もあるだろう。
我が子が試合に出るということは、親にとってはまさに感動秘話だらけなのだ。あんなに泣いていた子が…あんなに小さかった子が…。
この子がボルダリングに精を出すためなら、と、親は色々なことができるようになる。
最初、ちょっと昭和な感じが恥ずかしいな、と思ってしまった「ガンバ!」の声援だって、大声でできる。
安くはないクライミングシューズだって、それで登りやすくなるのなら、と喜んで買い替える。
家を建てるときには念願だったはずのスケルトン階段にだって、練習場を作ってもらった。インテリア性の高い階段よりも、息子の喜ぶ顔を見たい。
緊急事態宣言が解除され、息子が通うボルダリングジムやスクールが再開されたとき、私は息子が好きなことを続けられるのが本当に嬉しかった。こんなにボルダリングが好きなのだから、将来の夢は地元出身の楢崎選手のようなオリンピック選手か、と思いきや…
「う~ん、ボルダリングはシュミかな。」
いいと思う!趣味でも何でも、君がボルダリングのおかげで成長しているのは確かだから。
親は、子どものすべてを応援し続けたいものだけれど、おやつを食べているところを応援するのは難しいし、お風呂に入っているところを応援するのも難しい。そういった意味では、親に思いっきり子どもを応援する場を与えてくれる「スポーツ」はとてもありがたいものなのだ。
ありがとう、ボルダリング。
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