ロマン主義の病い
ワーズワスの「詩とは力強い情感がおのずから溢れ出たもの」というコトバが示すようにロマン派の詩人達は人間を無限の可能性を持った湧き出る泉のような存在として考えました。それに対してヒュームは人間というのはきわめて限定された存在で、例えれば一個のバケツのようなものにすぎないと言います。
ヒュームに言わせれば「ロマン主義」というのは、コトバの病を患っているようなものです。世界を「ひとつ」の固定した視点から遠近法的に「ことごとく包括」しようとすること――しかし、「それは象徴的言語の病気」であり、本来「世界は、言語を絶したもの」であり、われわれの言語というのはただ世界の部分々々、断片である、「燃えがら」を寄せ集めつなぎあわせることができるにすぎない。われわれの眼は鷲のように空高くにあるのではなく、泥の中にうずもれているのです。
世界を有機的な精神を持つ「ひとつ」のもの、湧き出てくる泉のような「深さ」を持つもの、としてとらえようとするロマン主義的言語観はモダニストにとっては討ち果たすべき権威です。
「意味するもの」に対する「意味されるもの」、「主語」に対する「述語」、「問い」に対する「答え」など、これらが結びついてこそ人はその世界を立体的なものとして把握し、その「深さ」に沈み込むことで自らの重みを感じ、アイデンティティを得たような気になれるのです。
そのような遠近法を破壊することでモダニストたちは「純粋詩」を得よう試みました。
英国留学中にパウンドなどを通じてイマジズムを知った西脇順三郎は、そのイメージの詩学に感銘を受け、帰国後、北園克衛、春山行夫などとともにモダニズム詩の運動を展開してゆきます。
しかし、
というような西脇の詩観は、ロマン主義的な「深さ」を希求する旧来の詩人の有り様からはずれたものであり、明治以後、ロマン主義や象徴主義の詩観を西洋詩そのものとして受け入れ信奉してきた日本の詩壇は、これに反発しました。
というのは萩原朔太郎が西脇に投げつけたコトバです。
という朔太郎のロマン主義の詩学からすれば、
というような西脇のモダニズムの詩学が受け入れがたいものだったろうことは想像がつきます。
と詩集『青猫』の序文で自己規定した朔太郎からみれば、「オブジェ」の詩などというものは、表面的でうすっぺらなもので、およそ詩と呼ぶに値しないものと映ったのでしょう。
萩原朔太郎 VS 春山行夫
モダニズム詩のスポークスマン的存在であった春山行夫は、このような朔太郎の態度を「その主張の根柢に文学の歴史的概念を欠く」ものとして激しく攻撃しました。
春山行夫は、
と言って詩に意味を求めず、いわゆるフォルマリスムと呼ばれた「深さ」のない世界を展開しました。
ぼくはこの春山の詩に、合わせ鏡を覗き込んだときに襲われる、あの無限に生成される自分の分身に両側から引き寄せられて、まるで宙吊りになってしまったときのような感覚を覚えます。
これは「深さ」のない奈落です。
という塚本邦雄の歌さながら、鏡の世界に拘束された少女は表面から表面へと永遠に墜落を繰り返します。
そしてこの詩はハンス・アルプ(1886-1966)とダダについてのウィルヘルム・ヘックの考察を引用しながら、そのナンセンス論を展開する種村季弘の次のような文章をぼくに思い出させます。
旧詩壇の抵抗にあらがいながらも春山らは果敢な実験的試みを続けます。けれどもモダニズム詩は第二次大戦下の思想統制によって沈黙を余儀なくされます。
そして、戦後においては、戦時下の戦争協力詩への反省から詩には「批評」(思想)がなければならない、ということが言われるようになります。
と新川を嘆かせた、いわゆる「戦後詩」の文脈のなかで、「ダダやシュルレアリスムを芸術上のモダニズムとしてのみ受け入れた……春山行夫氏にとっては、シュルレアリスムは芸術の重要な思考であり、方法であり、感覚であって、いわば如何に書くかということにのみ注意が集中していて、決して何を書くかという詩の主題的側面は問題にならなかった。……モダニズムの詩論に於て、内容が一種の無意味な形式と化してしまった」(鮎川信夫「現代詩とは何か」/『現代詩論:1』:晶文社 )とか、「内面世界の深奥に肉迫するところに、その詩精神がむけられずに、簡単にイマジズム(写象主義)と結托して、イメージの審美的パタアンの作成にむけられてしまった。つまり一種の文学的スタイルとして現代詩を偽装したというところに、日本モダニズムの災厄と不幸の原因があった」(村野四郎『現代詩を求めて』:現代教養文庫/社会思想社)、「春山らのフォルマリスムが今日古めかしくみえるのは、それが<意味のない>世界ではなく、<意味の稀薄な>世界を表現してしまっている」(大岡信『昭和詩史』: 詩の森文庫/思潮社)からである、というような言い方で精算されてしまいました。