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【映画の中の詩】『ドリアン・グレイの肖像』(1945)

オスカー・ワイルドの小説の映画化。アルバート・リューイン監督。米アカデミー賞で撮影賞を受賞しています。

引用されている詩はワイルドの長詩『スフィンクス』とウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』。
『ルバイヤート』は劇中で朗読される他に映画冒頭とラストシーンと三度も同じ詩句が引用されています。

  オスカー・ワイルド『スフィンクス』(日夏耿之介 訳)
昧爽(まいさう)は昧爽を追ひ、夜々(よるよる)は老いてきた。
この畸異なる猫は、そのあひだ、恒(つね)に恒に、
黄金(わうごん)のふちをとつたる繻子(しゆす)の眼(まなこ)で
支那製の莚(マツト)の上に横臥する。

こゝを去れい、厭はしい不可思議のものよ、
こゝを去れい、忌はしい獸(けだもの)よ
御身はわが凡百の畜生の官能を呼び醒まし
なりたくもないものにこの私をする。

御身は、わが信條を石胎の佯(いつはり)にしてしまふ、
肉欲生活の汚らしい夢をば眼醒ます、

『スフィンクス』ワイルド 作, アラステア 插絵, 日夏耿之介 訳


『ルバイヤート』は多くの訳がありネット上でも読むことができるのですが、内容が同一というわけではありません。

大きくは原典であるペルシア語からの翻訳であるか、『ルバイヤート』が広く知られるきっかけとなったエドワード・フィッツジェラルドの英語訳からの重訳であるか、という違いがあります。

広く読まれているのはこのフィッツジェラルド訳であり、『ドリアン・グレイの肖像』でも、以前レビューした『 あゝ荒野』(1935)でも引用されているのはそちらになります。

後の世の文字いくつ讀みわかつべく、
心をば、「見えぬあたり」へ送りしに、
日をあまた經て後に心はかへり、
『見よ、われは天にして地獄』と言ひぬ。

『ルバイヤット 』オオマア・カイアム [原著], エドワアド・フィツジェラルド [英訳], 竹友藻風 訳

ここでは竹友藻風の訳を引用しました。藻風訳は西脇順三郎が「後世に伝えたい」(「竹友藻風君を惜しむ」)と書いています。
でも引用しといてなんですが、正直私には文語体であることも相まって、いまひとつよくわかりません。

探し求める天国も地獄も実はお前の中にあるのだ、ということなのか?業火に身を焼かれるような現世が実は浄土でもある、とか?

フィッツジェラルド版からの重訳で同じ詩句を探すと以下のようなものがありました。

人知らぬ 来世(あの世)のさまを 探らんと
黄泉(よみ)の国へと わが魂(たま)を 送りて待てば
日もたちて 帰りて告ぐる その答とは
「われは天国 そしてまた われは地獄よ」

『ルバイヤアト : ペルシアの詩』ウマル・ハイヤアム, 尾形敏彦 訳

後の世の文字解明(あか)さむと わが眼もて
見るべくもあらぬ界(さかい)に 霊(たま)つかはしぬ
やがて戻りし わが霊の答へけらしな
「われこそは 天国にして 且つ地獄。」

『ルバイヤット』オーマー・カイヤム,寺井俊一 訳

來生(らいしやう)の主旨(むね)探らんと我魂(わがたま)を
眼に見えぬ氣遠(けどほ)の世へとかけらしめ
還るを俟(ま)ちて事間(ことと)へば、答ふらく
『己身法爾(こしんほふに)に淨土なれ、又地獄なれ』

『実生活と思想』大住嘯風 著
注:〈法爾(ほうに)は仏教用語で、真理に従って本来あるがままであること、あるがままの姿〉


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