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No.80 1961年4月~ 小学校から大学院まで私を担任・指導教授して下さり、教師へ導いて下さった先生方

 上記の写真は小学校の入学式のもので私の担任の先生です。私は小学校から高校まで担任をして下さった先生方、大学や大学院での指導教授には本当に恵まれました。39年の教師の道を歩み古希に近づいた現在の私があるのは、育ててくれた家族と共に先生方の大きな影響力の賜物と思っています。
 今回はそんな先生方との思い出を綴ってみます。
 初めての学校、川崎市立古市場小学校1年生の担任の先生は武田晋一先生でした。

入学式の記念写真から
入学式の私です

 初めての学校生活で不安な私の気持ちを入学式当日に解消してくれたのが武田先生の優しさでした。ベテランに近づき安心感をもたらしてくれていたのではというのが現在の私からの考察です。一番の思い出は、毎日下校する前におそらく先生オリジナルなお話をしてくださったことでした。紙や本を見てお話されるのではなく何も見ずにすらすらとお話されるのです。お話が終わるとこの続きはどうなるのだろうといつも楽しみにしていました。放課後はいつも一緒に遊んで下さいました。「給食の牛乳を全部飲まないと遊ばないよ」といつも冗談でおっしゃっていました。2年生の担任も武田先生でした。先生は国語が専門ではないかと思っています。
 
 3年生の担任の先生は高橋俊秀先生でした。大学を卒業され初めて先生になられた方です。

卒業アルバムより 新任から4年ほど過ぎました
3年生ごろの私、いつも野球をしていました。

 この先生に初めてお会いした時ビックリしました。なんと185㎝を超えるような大きな先生でした。バスケットボールをされていたようです。心はとても繊細な先生でした。転入してきた子どもには丁寧に対応され授業も関心を持たせて下さいました。放課後は武田先生同様よく遊んで下さいました。学校がお休みの時、何人かで先生のお家に遊びに行ったことがありました。当時はこんなこともできたのですね。4年生の担任も高橋先生でした。先生は算数が専門ではないかと思っています。
 
 5年生の担任の先生は福永佑司先生でした。確かこの年に他の小学校から転勤されたと思います。

卒業アルバムより
卒業遠足で行ったNHKでの私

 初めてお会いした時からベテランで安心して学校生活が送れそうな感じがしていました。とても冗談がすきでませてきた子どもたちを上手に対応している姿が印象に残っています。社会科が専門のようで、私の社会科好きは福永先生の影響が大きかったようです。今でも覚えているテストがあります。6年生の政治の学習で、所得税、住民税、酒税などを直接税か間接税に分けるものです。私はお酒を買う時に直接代金に入れているので酒税などは直接税と勘違いしすべて逆の答えにしてしまいました。この大きな間違いが社会科に関心を持つ契機になったのです。教師生活39年間「教室は間違えるところ」と言ってきたのはこの時のことがあったからです。放課後なども野球しているところをよく見ていただきました。6年生の担任も福永先生でした。
 
 中学は川崎市立平間中学校に通いました。1年生の担任の先生は下山良範先生で技術が専門でした。

卒業アルバムより
1年生、市内駅伝大会で優勝して

 3校の小学校から生徒が集まってきましたので、誰がどのような性格の子どもかは分からず先生は大変なことだったでしょう。ですから最初の学級委員は担任の先生からの指名でした(おそらく小学校からの情報を基に先生方で誰を指名するか決めていたことでしょう)。下山先生が一瞬私の方を見て私を指名しました。この指名が私の人生を大きき変えることになったのです。指名された学級委員が集まってみると、私を除いてみないわゆる頭がいいとされていた人たちです。小学校時代毎日のように遊び、野球をして塾などもいかず、宿題忘れが多い私が頭がいいとされていた人たちと同じ学級委員。ここは何とか勉強も頑張ろうとしましたが、今までさぼってきた代償は大きく随分苦労しました。下山先生には感謝しています。
 
 2年生の担任の先生は寺尾安子先生で、英語の先生でした。

卒業アルバムより
2年生 放送陸上に出場して

 寺尾先生は優しい上品な先生でした。初めて女性の先生が担任して下さいましたが、中学生の気持ちを分かってくれる存在の先生でした。2年生の秋に生徒会の役員選挙に立候補するよう先生からお話がありました。陸上競技で精一杯でしたので何回もお断りをしたのですが、寺尾先生は陸上部の顧問の野間先生の「そのくらいできる」という言葉も持ち出され、先生の粘り強い要請に根負けし書記に立候補し当選しました。この経験はその後私の生き方に大きな影響を与えたようです。寺尾先生には感謝しています。
 
 3年生の担任の先生は垣内(かいと)先生で、数学の先生でした。

3年生の最初の頃、生徒会役員と顧問の垣内先生で撮影した写真から

 垣内先生は陸上部の顧問でもありました。3年生が始まる少し前の春休み学校に陸上部の仲間といたら、垣内先生から一人呼ばれました。今度転入して3年生に入る生徒が陸上部の長距離に入るから面倒を見て欲しいということでした。3年生になったらその生徒は同じクラスでした。少し事情があるようでしたがそんなことは関係なく1年間一緒に長距離走に取り組みました。その生徒は駅伝の選手にも選ばれました。
 垣内先生の数学の授業はとても丁寧で分かりやすかったです。板書もとても整理されていました。私は初等科で算数を教える時いつも垣内先生の方法を思い出し丁寧さを心がけましたがうまくいったか自信はありません。
 その垣内先生は3年生の秋に病気で入院し、担任の先生が交代されました。卒業式にも会うことができず寂しい卒業でした。私が高校2年の時病気の症状がとても悪くなり、面会謝絶の病室に私は呼ばれ先生の生きようとする姿に触れると共に細くなった足をマッサージして差し上げることができました。その後お亡くなりになり、葬儀では大粒の涙で悲しいお別れをすることになりました。私はそれまで身近な「人の死」に触れることは無かったのです。垣内先生のことは今でも忘れることはありません。
  高校は平間中学の陸上部でライバルの関係にあった1年先輩の方が在籍していた神奈川県立横浜平沼高校に進学しました。陸上競技だけでなく大学への進学も考えました。当時神奈川県は高校の学区制がありましたので学区外からの進学ということになりました。
 1年生の担任の先生は梅原正巳先生で、地理の先生でした。

卒業アルバムより
1年生 自宅近くで

 地理の研究をよくされており、資料室には地理関係のものがたくさんありました。とてもユーモアがある先生でした。「ある図法で世界地図を描く」課題ではとても評価して下さいました。地理に関する興味が湧き世界各地の人々の暮らしに大きな関心が向きました。この関心は現在でも残っています。
 
 高校2年生と3年生の担任の先生は依田章史先生で、保健体育の先生と共に陸上部の顧問でした。陸上競技の110mハードルで活躍された選手でした。

3年生の遠足の写真から

 2年生で陸上競技の長距離種目に伸び悩んだ時や、3年生でもう一度大学でチャレンジをするかの進学相談にも依田先生にのっていただきました。もう一度チャレンジすることになり、青山学院大学文学部教育学科を受験し進学することになりました。当時、文学部と理工学部にはスポーツの推薦制度がありませんでしたので、1年生の夏休み前に陸上競技の限界を感じると次の道を歩むことは個人の判断でできました。

 文学部教育学科の2年生の時出会ったのが、古銭良一郎先生でした。「教育研究方法」という講座で教えて頂いたのです。その後古銭先生にはおよそ35年以上公私ともにお世話になりました。私の人生の半分以上の期間メンター(指導者)としての役割を果たして下さいました。先生は東京大学を卒業後、ピッツバーグ大学大学院を修了され英語がとても堪能な先生でゼミでは教育内容・方法、社会科教育を厳しく指導して頂きました。大学4年生の時にはゼミの先輩たちとの研究会が始まり、その後教員になっても毎月渋谷のお好み焼き屋さんで教師の方が集まって研究会を30年以上続け、その時の方々とは今も交流があります。

大学2年で古銭先生と出会った頃の私
30年以上続いた先生と研究会仲間 いつものお好み焼き屋さんで 右上が私

 先生は私が聖心女子学院初等科に勤務した4年目に、聖心女子大学文学部教育学科の教授に就任されました。その少し前から青山学院大学の古銭ゼミの卒業生で社会科の書籍を出版する研究会に私も入れて頂いていました。その関係で以下の書籍を共著として出版させて頂きました。私が教師になって8年目までのことでした。最年少の私は先輩たちにいつも助けてもらっていました。
共著『小学校 社会科の内容と方法』青学出版、1984.12
共著『子どもに探求させる 社会科の自由研究』東洋館出版、1986.7
共著『小学校国際理解教育の授業』東洋館出版、1989.2
執筆指導『世界とともに生きる日本の産業』全12巻 リブリオ出版、1989.4 
 
 ゼミや研究会、旅行でいろいろな所に行き学び遊びました。間違いなく古銭良一郎先生は私の最もかけがいのない「人生のメンター(指導者)」でした。
 大学を卒業後、大学院は立教大学文学研究科教育学専攻に進みました。青山学院大学とは違う所で学んでみたらという古銭先生のアドバイスもありました。立教と青山は雰囲気がとても似ていますが、教育学の先生のタイプは随分異なりました。講師の先生も含めて、上田薫先生、濱田陽太郎先生、細谷敏夫先生、吉田章宏先生など当時の教育学では著名な先生のゼミで学び、修士論文は濱田陽太郎先生に指導して頂きました。濱田先生は教育社会学、社会科教育などを専門にされて修士論文指導時は文学部長、文学研究科委員長をされ後に1986年~1994年立教大学総長に就任されました。お忙しい中私のいろいろな相談に時間を取って頂き何回か食事もご馳走になりました。実に誠実な先生でした。先生のお写真は立教大学のホームページでご覧下さい。                    
立教大学歴代代表者
https://www.rikkyo.ac.jp/about/president/history.html
 大学院修了後、1997年に朝日新聞編集委員から多摩大学教授に就任された山岸俊介氏の出版記念会で濱田先生にお会いしました。山岸さんが編集委員の時朝日新聞に記事を掲載した「学校解体新書」を書籍として発行された際の会合でした。記事で取材された方たちが集まっていたのです。久しぶりにお話ができ、最後に「無理するなよ」とお言葉を頂きました。

山岸俊介著『学校解体新書』小学館、1997年8月

 私は本当に先生に恵まれました。39年間の教師生活で何度も今回ご紹介させて頂いた先生方を思い出していました。こんな時この先生なら何というだろうか、この問いかけが教師としての私を継続させたのかもしれません。先生方本当にありがとうございました。これからも頑張ります。


立教大学大学院のゼミで長野県鬼無里(きなさ)の小学校を訪問した前日の民宿で

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