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No.166 2019年4月 初等科教師最後の年に初めての教え子と集まった時のこと

 1981年4月私が聖心の3年生の担任になり初めての教え子に出会いました。その学年の子どもたちとは縁があり、当時も現在も異例な持ち上がりをすることになりました。81年が3年生担任、82年が4年生担任、83年が5年生1クラスの社会科担当(担任は4年生でした)、84年が6年生担任。このような持ち上がりは私の教師人生最初で最後のことでした。カトリックの私立女子小学校の聖心女子学院初等科という私の成育歴では全く想像することができなかった学校に就職し、教師として楽しく充実した39年を勤め上げ、65歳で定年退職することができたのはこの学年の子どもたちのおかげではないかと考えています。
 この学年の人たちとは2013年から毎年4月に初等科に集まり、学院から許可を頂き教室や運動場・聖堂を見学した後、学院近くのイタリアンで食事会を開催していました。2019年4月には私が定年前最後の年になるので、特に学院から教室の使用を許可して頂き授業をすることになりました。冒頭の写真はその時の授業の様子をジャーナリストの卒業生の一人が新聞記事として表現してくれたものです。この記事を基にその時の授業のようすをご紹介致します。参加者の実名が書かれているところがありますので、部分的に省略をさせて頂いています。
 
 「ありがとう 岸尾先生」最後の授業 特別号 2019年4月20日〔土曜日〕
聖心女子学院初等科1981年の3年生
 
人生の転機 「ずっと、この学校に」「先生の通信簿」支えに
 
 聖心女子学院初等科の岸尾祐二先生が4月20日、教壇に立った39年前の教え子たち約40人を前に、「最後の授業」を行った。「人生のターニングポイント」をテーマに50分の話が続く間、教室は感嘆の声や歓声、そして笑いが途絶えなかった。
 
 会場となった初等科2階の教室では、黒板に4年生当時の集合写真が映し出され、アフリカの飢餓を学んだ際に自分たちでつくった「教材」が出迎えた。
 「みんなと出会ったことが、私の人生を大きく変えた」。授業の前半は、先生になるまでの生い立ちについての話だった。
 箱根駅伝をめざして青山学院大学に入学したが、勉強が「意外に面白く」なり、高校の社会科の先生をめざした。ところが、小学生の子どもに教えた経験が忘れがたく、小学校の先生へと方針転換する。大学院を経て、通信教育で免許を取得し初等科の採用面接を受けにいく。シスター田中とシスター柳下の面接は、ほんの1時間ほどで終わったという。
 先生になった当初から決めていたのは、「公立学校ではできないレベルの高い授業をする」こと。
 その一例として、アフリカの飢餓を学んだ地図や、日本国憲法の「教材」など当時の子どもたちが手がけた作品を披露。すべて先生が保管していたという。
 「先生は自分たちのことを、実の子どものように考えてくれた」「これからも、ずっとこの学校にいてください」
 児童がつけた先生の通信簿にはこんなコメントもあったそうだ。
 授業の後半では、あらかじめ椅子に配ってあった当時の教材をもとに、話が進んだ。角張った手書きの文字が懐かしい。
 「後々まで面白かったと言ってくれる人も多く、私にとってはスタートの実践としては自信ができた」と振り返った。
 続いて、中央線ゲームが分数を学ぶ教材だったこと、「ドラドラドラ」はいまでも6年生が喜ぶことなどの話から、○〇さんの「46歳でも喜ぶ!」という声をきっかけに、立ち上がって先生と7回の「対戦」。「ウーポン」も5回挑戦し、大きな笑いに包まれた。
 各国の世界地図で発想の転換を学び、奈良の大仏やフランシスコザビエルの肖像画をみて気づいたことを書かせる。この授業はいまも続いているという。
 「この学年の人たちは、私にとってのターニングポイント。もう少しで定年ですが、勤め上げられるのはみなさんと出会えたから。私にとって、大きな存在だったと思う」の言葉で、授業は締めくくりとなった。
 
 教師人生は「90点」
 授業の最後に、先生は教え子たちの質問に答えた。幹事の○〇さんが事前に寄せられた中から、10問を厳選した。主なやりとりは以下の通り。
 ―私たちの学年の第一印象は。
 「とにかく、ものすごく元気。掃除もしないお嬢さんばかりと思っていたら、全然違った。特に○〇さん、先生はずいぶんと救われたよ」
 ―先生を辞めたいと思ったことは。
 「一度もありません。これだけの子どもたちにレベルの高い授業をしなければ、という思いがいつもありましたね」
 ―子どもと接するとき、大切にすること。
 「一人ひとりとどれだけ話ができるかという、コミュニケーション」
 ―職員室の秘密、職場恋愛はどうでしたか。
 「そんなこと話をしたら、怒られちゃうよ」
 ―教師人生に点数をつけるとしたら。
 「子どもたちは授業に食いついてくれて、保護者の理解もひじょうに高い。90点は、あげてもいいかな、と」
 
 先生人語
 授業は、岸尾先生と毎日のように顔を合わせていた39年前と同じ雰囲気で、始まった。当時、先生は26歳。いまの私たちより20歳も若い。
 1981年はベストセラーになった「窓ぎわのトットちゃん」が刊行された年。男女雇用機会均等法施行の5年前だ。この時代に、シスター田中と柳下が先生を採用していたとは。
 「新聞を存分に使ってのリポートづくりなどで、生徒の視野と知識、関心をひろげさせている」。1989年10月17日の朝日新聞天声人語に載った6行ほどの紹介が、先生の「新聞デビュー」だったそう。シスター伊庭が「大々的に変えられた」と表現されたそうだが、先生の授業はあの時と同じだった。
 「大きなターニングポイント」の一つに、私たちとの出会いを挙げた岸尾先生。来年3月、新たなターニングポイントの先はどんな道に? 唯一、答えのなかった「職員室の秘密」とあわせ、来年4月の囲む会では、新たなニュースが聞けるかもしれない。(Y)
 
 この授業のために、現在住んでいるシンガポールやベトナムから帰国して出席して下さった方もいました。
その時に、幹事の方々が事前に準備をして下さり「メッセージブック」をつくり贈呈して下さいました。
 一人ひとりのメッセージは①近況報告 ②岸尾先生、と聞くとまず思い浮かぶことは ③岸尾先生との授業や遊びなどで1番印象に残っているのは ④今だから!先生に聞いてみたいことは ⑤先生へのメッセージ で構成されていました。
 

 先ほどの新聞に「来年3月、新たなターニングポイントの先はどんな道に? 唯一、答えのなかった『職員室の秘密』とあわせ、来年4月の囲む会では、新たなニュースが聞けるかもしれない。」とありましたが、2020年4月は新型コロナ禍により再会はかないませんでした。4年間お休みでしたが、2024年10月には幹事の方たちが、私の古希と『ある私立小学校教師 実践・研究の足跡―聖心女子学院初等科39年とその前後―』出版を祝して他の学年の教え子も参加しての会を開催してくれるようです。
 私はこの学年の子どもたちと出会えたことが本当に幸せなことでした。これからもみんなでいろいろな企画ができればと楽しみにしています。

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