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二の腕

 一ヶ月ほど前に大枚はたいて買った空気清浄機のフィルター劣化を気にするあまり、おいそれと部屋で放屁もできません。Pesoyamです。

 私が大学時代に何度かデートを重ねた女の子が最近彼氏と破局したとの噂を耳にしました。彼女は飾り気のない朗らかな性格で、いつでも笑顔を忘れない素敵な女の子でした。彼女とは雨の日にスカイツリーへ登ったり、日野にある土方歳三記念館を訪れたり、巣鴨のとげぬき地蔵を二人で洗ってみたり、楽しい思い出がいっぱいです。しかし、この知らせに何の感情も抱くことができず、自分でも少し困惑している次第です。これでは書く内容がありません。

 頭に思い浮かぶのは彼女の二の腕の感触ばかりです。

 街路樹が黄色くなる頃のことでした。私たちはお台場へ遊びに行きました。お台場ヒストリガレージで自動車の蘊蓄を垂れ流す無料音声ガイドと化した私に彼女はよく付き合ってくれました。色々話したがこれだけは忘れるな、と私が教えたトヨタ2000GTの前期型/後期型の見分け方を、彼女は今も覚えているでしょうか。

 喋り疲れた私たちはカフェに入りました。夜も遅く客はまばらでしたが、私たちは壁に面した席に二人並んで座りました。キムチチーズ鍋を食べ過ぎて太ってしまったという彼女は、自分の二の腕をモミモミし始めました。君が太っているというなら君はこの世界の多くの女性に喧嘩を売ることになるよ、としょうもない慰めをしてキザを気取る私を側に、彼女は何だか色っぽい目をしています。いつも元気な彼女が今は少し違った雰囲気です。

「ううん、私が痩せてたらこんな二の腕にはならない」

と彼女はやはり二の腕を気にしながら、ハニーカフェオレを啜ります。心なしか彼女との物理的距離が着席時より縮まっているような気がしてきて、胸が早鐘を打ち始めました。気持ちを落ち着けるために酸素をたくさん取り込もうとすると、彼女から漂う甘い心地よい香りが脳をさらに刺激して却って正常な思考を妨げます。

「どど、どどれどれど……」

と判断能力を失った私は彼女の二の腕に手を伸ばしました。彼女は抵抗することもなく、ただ私に二の腕を揉まれるがままでピクリともしません。やや上目遣いで私のことを見つめています。

 なんでしょう、祖母の家にいる猫のお腹と同じ感触がしました。彼は一度太った後ダイエットに成功したものの、デブ猫時代に伸びきった皮が収縮することなくお腹にぶら下がっているのです。あの皮の感触です。昔からあの皮を触るたびに何か性的なものを覚え、彼には幾度となく手を噛まれたものですが、この男としての直感は間違っていなかったのです。デブ猫から減量した猫のお腹は、女性の二の腕です。

 私は一心不乱に二の腕を揉み続けました。それまで男子校(のような高校)で暮らしていた私にとっては、こんな希有な機会は人生長くとももう回ってこないと、そう考えました。このまま酔生夢死への道をひた走っても構わない……と。

 「ねえ、いつまで触ってんの」

と言われ、私は二の腕ワールドから帰還しました。

「どう?」

と少し頬を赤くした彼女に感想を求められ、二の腕の妙味により脳が溶けた私は

「うん、プニプニィ」

と情けない声で答えました。

「だよなぁー。あーダイエットしよ」

と明るく言いながら、今度は彼女が私の二の腕に手を伸ばします。ハッとした私は、ここは男らしい一面を見せねば、と二の腕の筋肉に密かに力を入れました。その頃罰ゲームを受けるような気持ちで続けていた筋トレが報われる瞬間がやってきました。


げっ、意外と筋肉あるんだね。キモ。


 彼女に触ったのも、彼女から触られたのもこれが最後となり、間も無く私はガールフレンドを作り呆気なく男になりました。

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