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南米通信 2 カンタリアとモスカルドンフライの雑誌 No.43 1998年初秋号掲載



■一九九八年一月一三日
 一二月二七日に日本から合流した友人二人と年末から年始にかけてバリローチェ、エスケルと、アルゼンチンの方を回ってきました。一人が帰国し、残った一人に別行動を提案しました。いささか大人げないかな、とも思ったのですが、ぼくは「自分の旅」がしたくなったのです。旅はひとりです。今は一人で気ままな状態。再びコジャイケにいます。
 そろそろこの街を離れたいとは思っているのですが、トラックの修理にかかった費用を保険会社から受け取るのに手間取ってます。このままではコジャイケ滞在日記になってしまいます。この街は好きですし、釣り場も近くにいっぱいあるから、はまってしまいそうです。魚が釣れれば別の場所へ行く必要もなくなってしまいますものねえ。でも「別のどこか」へ行きたい。
 少し旅に慣れてしまって、なかだるみ状態なのでしょう。
 コジャイケのいつもの宿の庭に今はテントを張っています。朝飯付きで一五〇〇ペソ。最近チリペソが下落傾向にあり(これもうれしいやら、悲しいやら。なぜなら退職金プラスαで買った車の価値が下がってゆくので)、一一月の初めには一ドルが四一五ペソぐらいだったのが、今や四七〇ペソ! そうすると朝飯付きテント設営代は三ドル強というところでしょうか。でもまあ納得の値段です。
 年末から年始にかけて宿主の息子一家がサンチャゴから里帰りしていたのですが、50キロ離れた空港までの送り迎えをぼくの車でしてあげました。そんな努力の甲斐あって、とても居心地がよい状態です。
 ティムという男の話をしましょう。ティムは二四才のオーストラリア人です。ある所で知り合い、一緒に釣りをしていたのですが、無駄のないきれいなキャスティングをするのでただ者ではないと思い、オーストラリアで何をやっていたのか尋ねると、なんとフィッシング・ガイド。恐れ入りました。
 その後、彼はコジャイケで釣りガイドのアシスタントというアルバイトを見つけ、彼女まで作っちゃいました。フライフィッシャーであり、また音楽や映画の趣味も合い、今では親友です。彼と釣りに行くのは楽しい。
 ティムの彼女ソリエダの働くお店はいろいろな人が集まってきます。オーナーのアメリカ人サミュエルも釣りをします。ここの土地で自分オリジナルの人間関係ができてゆくのはとても心強いことです。

■一九九八年一月二七日
 車の保険は結局こちらの不備で受け取ることができないことが分かり、がっくりきてます。しかし「問題ない」と一か月も言われ続けた挙げ句にこの結論。日本なら数日のうちに分かるでしょう。ラテンアメリカってことは分かっているつもりですが。五月にサンチャゴに戻った時にもう一度交渉しに行ってみます。
 追伸、今月で三二才になりました。ちょうど誕生日の日にコジャイケに残っていた友人を空港まで送り、一人になりました。これからがぼくが望んでいた旅ができるような気がします。
 好きなことだけをするってことは、何かを捨てるということなのかもしれません。きっと世の中には、捨てることができる人とできない人がいるんです。

■一九九八年二月四日
 自分の名前の上につく肩書きを今、ぼくは持っていません。学生の時は学校の名前がつき、勤めていた時には会社名がつきました。今はなにもありません。それに付き纏う不安感というのもほとんど感じることがありません。虚勢を張る訳でもなく、後悔している訳でもなく、ただ自然に受け入れることができます。それは養うべき家族もいず、明日の食事に困ってもいず、目の前に川が流れているからかも知れないけど。
今、自分はひとりです。

 さてさて釣りです。今、リオ・パロマという川にいます。ここにある『ロッジ・パロマ』のフィッシング・ガイドに教えてもらった釣り方は、ドリフト・ボートを使って時にフライをスイングさせるという程度のことでした。しかし印象的だったのは使うフライです。そのお陰でぼくのリオ・パロマに対する印象は「釣れない川」から「釣れる川」へ一八〇度変わりました。
 それまでは、いつもの自分の定番エルクヘア・カディスとアダムスを使っていました。スプリング・クリークや、特定の虫の集中的なハッチに伴うライズでもない限り、まあ釣れるフライでしょう。ところがアタリもかすりもしなかった。だから「いないじゃん」って思ったわけです。反応すら無かったわけですから。
 要はある陸生昆虫でした。「このフライをここの他の誰かに見せたら、殺すからな」とガイドに半分真顔で脅された時はちょっと怖かったです。スペイン語でカンタリアとモスカルドンと言います。
 そのフライを最初に見た時には絶句! しました。もう大きくて醜いんです。きっと高山の備前さんの言葉を借りれば「自称正統派」の人が結びたくないフライの筆頭に挙げるでしょう。
 しかしこのフライ、れっきとしたマッチ・ザ・テリストリアルのフライなんです。その陸生昆虫のモスカルドンの正体とは「クマバチ」です。日本で見るのと同じです。そしてカンタリアとはなんと「クワガタ」です。ノコギリクワガタ系です。サイズは日本のそれと同じ。
 ここの鱒はクワガタ食ってる!


■一九九八年二月一〇日
 今、パイネ国立公園にいます。コジャイケで釣り逃がした美しい鱒をもう一度見たくて、1200キロのダートの道を二日かけて、トラックを飛ばしてきました。ドイツ産のそれはもう美しい鱒です。
 出会いは、ぼくがコジャイケの宿の台所で「テトリス」をやっていた時のことです。「サウス・アメリカン・ハンドブックを持ってたら見せてもらいたいんだけど」と話しかけてきたのです。最初は「ケ、人がせっかくテトリスしてるのにうるせえな」って思ったんですけど、ゲームをやめてよく見ると、「お、かわいいじゃん」と、グッと来たわけです。
 まあ自己紹介をしたりしてお互いに少し打ち解けあって。で次の日、彼女「今日はなにもすることがない」って言うんで、「よかったらぼくのトラックで案内してあげるけど」って誘ったら二つ返事でOK。その日は他に約束がありましたが、全てキャンセルしました。そんなの当たり前です。
 全くビューティフルな一日でありました。天気も最高。助手席の相手も最高。彼女の声といったら、まるで鈴の音、小鳥のさえずり、小川のせせらぎのようです。本当、本当。
 明けて次の日、朝早起きして、パイネに向かう彼女をバスターミナルまで送っていきました。ここの挨拶は、相手が女性だと頬に軽くキスをしたり、頬をくっつけたりするんですが、その日ほどその「挨拶の仕方」に感謝した朝はありません。しかし、悲しかった。
 次の日。ガックリきているぼくを見て、同じ宿に泊まっていた元デザイナーのイタリア人のオヤジ、エンゾが、「なんてオリエンタルなんだ! ここはラテンなんだぜ。お前の血をラテンのと入れ換えなければ駄目だ」って言うんです。まったく、ラテンオヤジです。
 彼はパイネの近くまでのエア・チケットを持っていたのですが、それをキャンセルしてパイネまでのガソリン代にしてもいい、と言うのです。ついぼくもその気になってしまいました。
 手掛かりは、「彼女はパイネで働いている友達に会いにいく」ということだけです。今ぼくの車のメーターはコジャイケから1200キロを指しています。二日かかりました。パンクもしました(この旅で六回目)。なんせエンゾはぼくの父親と同じぐらいの年なので、途中いろいろありました。
 しかし、ともかく今日、ぼくは奇跡的に彼女に会えたのでした。抱き合って(正確にはぼくの方から一方的に抱きついて)再会を喜びました。
 君に会うために来たということ、別れた後、悲しかったということを伝えました。「死ぬ前に君にもう一度会いたかった」と言いました。スペイン語で。(日本語じゃとてもじゃないけど言えない)。
 事前にエンゾに聞いて知ってはいたのですが、「モナコに彼氏がいる」と彼女は言いました。ガーン! しかし、彼女もぼくとの再会を「信じられない!」ととても喜んでくれました。再び彼女に会えたことと、時間を共有できたことでぼくは満足です。もちろん負け惜しみですが。
 ベルジット。168センチ。ドイツ産。二八才。この美しい鱒がきっと今回の旅で釣りそこなったいちばんの大物です。
 ここでの滞在は正味三日の予定です。エンゾとも別れ、今度は一人で1200キロの道を運転してコジャイケに戻ります。その後、7キロのブラウンが釣れるビジャ・オイギンスが待っています。

■一九九八年二月一四日
 パイネは一泊で帰ってきちゃいました。ベルジットの友人にあんまり歓迎されていないようなんで。これ以上長居してもあんまりイイことはなさそうだな、と思って。寂しい気持ちでした。
 エンゾを空港へ向かうバスのバス停まで送り、一人でパイネを出発した直後は、ストーンズの最新アルバムをフルボリュームでかけ、ミック・ジャガーの「ANY BODY SEEN MY BABY?(誰か俺のベイビーを見なかったかい?)」というフレーズに感傷的な気分になったりしてました。しかし、そんな気分も、あまりに長いドライブにアッという間に吹っ飛びました。行きは1200キロでしたが、帰りは舗装道を選んで遠回りをしたおかげで、なんと1600キロ。道は乾いていて、ただただ平らでした。
 ぼくのトラックのウインドウから見える夕暮れの道は、どこまでも平らなせいか、いつまでも傾いた光が漂っていました。九年前にこの地を訪れた時の記憶がワッと蘇りました。とにかく三月には再びあの南の地「フエゴ島」へ行くんだ、とぼくは強く思いました。



■一九九八年二月一六日
 パイネからコジャイケに戻ってから、イヴァンという男とヴィジャ・オイギンズという村に来ました。この村はまだ道が通じていず、馬か飛行機だけが交通手段です。コークラネという街まで車で行き、そこから飛行機を使いました。
 思ったよりも大きな村でした。人口は約四〇〇人。そのうち一〇〇人は警察と軍隊です。アルゼンチンの国境が目と鼻の先のこの地は、防衛の面でもある程度は人を配置しておかなくてはならないのでしょう。
 学校があります。郵便局があります。安宿もあります。車はないと聞いていましたが、軍関係の車の他にも、アルゼンチンから湖を経由して運び込んだ車もありました。車があるということはもちろんガソリンも売ってます。
 イヴァンは釣りガイドとしてこの村に滞在していたこともあり、ここの釣り場には精通しています。二八才のチリ人、コジャイキーノ(コジャイケっ子)です。今は家業のペンキ屋を手伝ってますが、本人は釣りガイドになりたがっています。年も自分と近く、コジャイケにいる時はイヴァンがいちばんの釣り友達です。
 しかしここヴィジャ・オイギンズでの釣りは疲れました。
 とにかく歩きました。カメラや予備の釣り道具でおそらく30キロぐらいになったザックを背負って、釣り場まで五時間以上歩きました。村の馬や車を使えばもっと楽だったんですけど、タイミングが悪かったのと節約のために歩きました。
 ラグナ・クラーラという釣り場では面白い釣りができました。澄みきった水がゆったりと流れるスプリング・クリークです。魚を探して釣るサイト・フィッシングです。ラグナというのは小さな湖のことですが、約4キロぐらいの流程の間に3つのラグナがあり、ラグナとラグナの間は小さな流れで繋がっているのです。
 透き通った水を覗き込むと、でっかいブラウントラウトが五匹、まるで池の鯉のように泳ぎ回っていました。なにせスレていないんで簡単に釣れます。最大で60センチ4キロくらいの魚でした。何を食っているのか、この大きさで4キロというのはかなりの重さです。
 フライはきっと何でもいいでしょうが、面白かったのはラトン、つまり鼠です。釣りキチ三平のイトウ釣りじゃあるまいし、まさかと思ったのですが、イヴァンがいいと言うので使ってみたら、釣れました。
 どでか鼠フライをドカンと浮かべて、リトリーブします。すると巨大なブラウンが後を追ってきます。そしてゆっくりと大口をあけて、ガブリ。こっちは落ちつき払ってゆっくりとロッドを立てる。首を振ってフライを外そうとするのが澄みきった水を通して見てとれます。
 ドライにスレてきた時に沈むフライで良かったのは、これまたどでかのストーンフライ・ニンフでした。モンタナで買ったヤツです。ジャイアント・ストーンがいるとは思えませんが、ここでブラウンを釣って感じたのは、特定の虫にライズしていない限り、ブラウンはでかくて黒いフライが好きなようだということです。ラトンは巨大なマドラー・ミノーといった風体なのですが、それを使う釣りは、鱒釣りというよりも、バス釣りです。確かにブラウンはレインボーなんかに比べて、性格的にはずっとバスに近いな、というのが実感です。

■一九九八年二月二四日
 今、コークラネの近くの道端に車を停めて、援助車を待っています。
 ビジャ・オイギンスの帰り、コークラネの近くにもリオ・コークラネといういい川があるので、そのままコジャイケに帰るのではなく、イヴァンと「リオ・コークラネもやっていこうぜ」ということになったのです。
 ただし釣り場に至る道はかなり悪く、4WDでなきゃ無理だろうなって道です。だから過剰なくらい注意を払っていたのですが、それが裏目に出ました。自分の運転の下手さにほとほと呆れています。ゆっくりと慎重に車を進めたあまり、半クラッチを多用しすぎ、クラッチ板がすり減ってしまったのでした。カッコ悪ィ! そういえば、ちょっとキツい登りで、嫌な匂いがしてました。エンジンの回転数の割にスピードが出ずに「あれ、もしかして」と思ったのですが…。しかし「途中のコークラネの街じゃきっと部品もないし、なんとか騙し騙しコジャイケ(300キロ以上離れている)まで戻らないと…」と思い、そのままコークラネを通過してコジャイケに向かいました。街を抜けて4キロぐらい行った最初の長い登りが限界でした。傾斜を利用してUターンして街まで戻ることにしましたが、たどり着けず、車を置いて街まで歩き、修理屋を探しました…それが昨日。 
 昨日の晩は車の脇にテントを張って寝ました。今朝、ブルース・スプリングスティーン似の修理屋ロランドが来て、一二時にトラックで来て牽引する、と行って去って行きましたが、もうすでに二時を回っています。今日が水曜日、コジャイケから飛行機で部品が到着するのが金曜日の予定。果たして修理代はいくらかかるのか? 一〇〇ドル札に羽が生えて飛んでいきます。
 隣ではイヴァンが疲れて寝ています。昨日は「浅野は悪いカルマを持っている」なんてぬかしていました。早く来いよな、ロランド。

■一九九八年三月二日
 結局、車の修理が上がったのが二月二八日の昼頃でした。コークラネに四泊。コジャイケに向かう途中、「悪いカルマをぶっとばそうぜ」ってことでイヴァンと二人でリオ・バケルに入りました。
 いつかカディスでいい釣りをしたぼくの大好きなポイント。二人とも巨鱒の期待で気持ちがはちきれんばかり。六時頃、「308番の電柱」からいつものプールに下りていくと、早速イヴァンが魚を発見しました。ライズも始まって…。魚もでかい! 60センチ、3キロはある!
 カディスでいい釣りをして以来、リオ・バケルはわかった気でいたんですが、しかしことごとく無視されました。エルクヘア・カディス、カディス・イマージャー、ビーズヘッド・ニンフ、アダムス、CDC、フェザント・テール、コンパラ・ダン、ビートル、アント、ミッジ…。全部だめ。盛んにライズしているのに全然だめ。
「そんなんであたしのことわかった気でいたの。甘いわよ」
 と愛しのリオ・バケルちゃんに一発かまされてしまいました。二一時三〇分ライズ終了。イヴァンに「負けた…」と言うと、「俺も」と返事が返って来ました。
 その日はそれからダートを280キロ走り、コジャイケ到着が朝の四時。
 コジャイケなんかでダラダラしている時間があったら、リオ・バケルでマッチ・ザ・ハッチ強化合宿でもしているべきでした。クソッ! 時間が足りない。

■一九九八年三月四日
 午前一時。眠れない。テントを雨が叩いています。今はコジャイケから130キロぐらい北に走り、幹線から外れた林道をぼくの四駆のトラックで行けるところまで進み、テントを張っています。近くに人は全くいません。
 チヌークを釣りに来ました。ところがやっぱガイドなしだとポイントが分かりづらく、今日はチヌークかコーホーの一カップルと一匹跳ねたのを見ただけ。釣れたのはブラウンばかりでした。
 頭が冴えて眠れません。こんな時は音楽があればいいんだけど、日本からカセットテープをあまり持ってこなかった。日本を発つまでの二週間余り、とても忙しかった。それでテープをじっくりと選んでいる時間がなかったのです。
 それでも持ってきたのは、ローリング・ストーンズ、ボブ・マーリー、ブロンディ、ロッド・ステゥワート、プリテンダーズ、ボブ・ディラン、RCサクセション。
 ローリング・ストーンズ。はや一五年以上心の支えです。今手元にあるのは、四年ぐらい前に出たベスト盤と『LET IT BLEED』。そして最新盤の『BRIDGES TO BABYLON』のカセットをコジャイケで買いました。『LET IT BLEED』の一曲目の『GIMIE SHELTER』 はパンパ(パタゴニアのアルゼンチン側の乾いた大草原)での夕方には欠かせません。
 『LET IT BLEED』 にはまた、残念な時にぼくがいつも聞く歌『YOU CAN'T ALWAYS GET WHAT YOU WANT』も入っています。「いつも欲しいものが手に入るとは限らない、でもがんばればお前の必要なものが手に入るかもしれないぜ」ってミック・ジャガーが歌うのです。
 ところで、今ストーンズ日本に来てるんですよね。きっと今度こそ最後のツアーだと思うんです。残念です。ストーンズのコンサートは気の弱い男が自分自身を確認しに行く場所なのです。ああ、ストーンズ見たい!
 三月五日にはコジャイケを発ち、アルゼンチンを再び一路南下し、パイネを経由
していよいよフエゴ島へ向かいます。ガソリン代をシェアするという約束で二人のニュージーランド人を抱き込みました。シモンとクラウディオ。釣り人じゃありませんけど。
 ここからパイネへ向かう旅行者は多いんですが、最短距離のアルゼンチン側の国道四〇号は公共交通機関がないんです。もうカラカラに乾いた道。前に一度パイネに行く途中に通った時は「この道でのヒッチハイクは不可能だな」って思いました。死ぬかも知れません。ガソリンを入れる時に「次のガソリン・スタンドは何キロ先?」って聞くんですけど、最長は確か300キロ以上先でした。
 じゃ車なんか持ってない旅行者はどうするのかっていうと、いったん大西洋岸まで抜けて、リオ・ガジェゴスという町経由で再びチリに入国しパイネに行くのです。そのバスだって毎日あるわけではないし。そう安くもない。つまりシモンとクラウディオにとっても、ぼくの提案は渡りに船だったわけです。二つ返事で君の都合に全部任せるとのことです。
 ともかくいよいよフエゴ島に行きます。リオ・グランデのシートラウト。ぼくにとっては未だにひとつの夢です。まだフライでは釣ったことがない。


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