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お世話になった皆様へ

(釣り雑誌に掲載された「退職メール」です。次回からパタゴニアの釣行記です。)

本来なら、はがきでご挨拶というのが筋なのでしょうが、メールにて失礼させていただきます。また形式ぶった言い回しや書式も一切省略でまいります。
10月20日付けで退職した浅野でございます。8年半にわたりお世話になったすべての皆様、本当にどうもありがとうございました。
よくこんな自分が8年半も勤まったな、と思っています。思えば昭和63年の8月20日、当時の就職解禁日のことでした。あんな景気の良かったバブルの時でさえ、私の内定は0でございました。小心者の私は前日眠れず、当日は眠い目をこすりながら、東京駅で降りたのでした。

そして丸北ドームを抜け目の前の古ぼけたビルに並び、と言いたいところですが、前を通り抜け、S信託銀行に行ったのでした!理由は「知ってる先輩がいたから」という、まことに若者らしい正しい理由によるものです。まあ面接を受け「ダメだろうなこりゃ」という感触を胸に東京駅に戻ってくると、さっき通った古いビルの前にいっぱい人が並んでいました。
列があるとついつい並びたくなるものでございます。並んだ後に前の女の子に「ここ、どこの会社?」と聞くと、あんた馬鹿じゃないの、という顔をされ、「A社よ」と教えられました。

今はなき旧本社9Fの大会議室でビデオを見させられましたが、前夜の睡眠不足がたたり熟睡させていただきました。人が動く気配で目が醒めると、東京駅の向こうのビルの上の方の「ルビーホール」というところで面接があるらしいということでした。眠かったこともあり、何度もこのまま帰ろうか、と思いましたがモノは試し(チャレンジ精神なんてものとは別モノ、ただの惰性ですから)と、ルビーホールに向かいました。順番を待っている間に何を言おうか考えました。

寝起きで気持ちが大きくなっていたこともあり、体育会的態度、言動でギャクをかましまくりました。面接最後の常套句
「今晩電話がなかったら、縁がなかったと思ってください」
と言われ、
「ハッ、そういうの私慣れておりますから!」
とハツラツと答え、自分の面接官のみならず隣の面接官の笑いまでも誘った時には、確かな手応えを感じたものでございます。思えばあの時が「芸人」としてのピークだったのかも知れません。
その後2回の面接を経て内定をいただいた時には、
「やっぱ一番大事なのはハッタリじゃん」
と深く感じ入ったものでございます。商社・銀行についてはそれなりに勉強していましたが、何の予備知識もない会社に入るハメ、いやことになったのです。

入社後はとても恵まれていました。関連事業部門で資産管理、新規事業、大宮の関連店舗への出向、国際部、広告代理店出向とたった8年半の間にいろいろな分野を垣間見ることができました。他の会社では不可能なことだったと思います。
いろいろな人に会いました。今から思うことは、そこにはやはり「縁」という不思議な、目に見えない、数字にも出ない、お金にも換算できない不思議なつながりがあったのだろうと思います。
酒も飲めないつまんない男なのに、辞める段になって色々な方が声をかけてくださって感激しております。
会社を通じて時間と場所を共有した、私と縁のあったすべての方々の幸せを祈っております。もし会社の発展が個人の幸せであるならば、それも祈ります。いや僅かながらまだ株を持っているので、皆さんもっと収益をあげましょうネ。

ぼくは南米のパタゴニアに行きます。目的は鱒釣り。フライフィッシングなんてものを覚えてしまったおかげで会社を辞めて地球の裏側まで行くことになりました。釣りはぼくをどこまで連れていってくれるのか、その先を確かめに行ってきます。
私のことを気にかけてくれたすべての人の愛に答えられるように、がんばります。

さあ、釣りの時間です!皆さん本当にどうもありがとう。

1997年10月29日深夜 浅野眞一郎

フライの雑誌41号1997年初冬号

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