死について染みついた経験

こんにちは、中々書き留められずに適当投稿になっております。

夏が終わり秋が来て、何となく毎日肌寒いですね。最近は俳優さんなどの自殺ニュースをよく見るようになりました。僕自身がこう言う病気の人間ですので、あまり偉そうなことは言えませんが、人の死は本当に突然やってきます。

僕は今まで自殺を10回以上は試みた記憶があります。精神的な自分を守るフィルターが、辛い出来事や感情、億劫さなどをろ過することが出来ずに、心の空瓶のそこへドバドバと色々な繊細さがごちゃ混ぜになって、スカスカの容器に積もって行く感じです。

めっちゃ分かりにくいですね笑
端的に言えば生きること死ぬこと、残された親が〜子供が〜、仕事が〜夢が〜、全ての存念や思考を通り越して何もかもどうでもよくなります。
もはやどうでもよい、と言う思いすら最終的にどうでもよくなり、その時感じるのは不思議と夜の砂浜で足元に波が寄せてくるような、ただただ静かな心の感触です。
両腕の重みと手を開いて閉じてを繰り返すと、若干痺れたようや感覚を覚えます。

僕が死のうと思った時は、ただただもっと穏やかで静かな世界に行くのだと、ぼんやり考えていました。寿命で死を待つ人、自ら死を決意して待つ人、全然経緯は違いますが、同じ死と言うゴールに着くまで様々な経緯があると思います。

人は死のうと思っても、中々じゃあ死にますと言える人は少ないと思います。死に対する倫理観や価値観、宗教や教育などで死に対する考え方は人の中で千差万別だと思います。
しかし、死が今生きている僕たちにとって必ず来るものであれば、それを自分が歩んできた人生を振り返り、恐怖と捉えるのか安息と捉えるのか。それとも一瞬の人間を苦痛と考え、死の先を安寧と思うのか。

真実が何であるかは実際に死んでみなければ分かりませんが、自分で命を断つ人は安息や何も無い世界を求めているのだと思います。僕もぼんやりと何回か未遂を繰り返してきましたが、それでも死ねないのは未だ俗に言う未練があるのだと思います。

死というのはフラッと突然、実家に来る親戚のオッチャンのようにやってきます。僕の周りにも、後輩や同級生、知人などフラッとあの世に自ら飛び込んで行った人は結構います。

僕はありふれた無責任なことは言えません、残された人が悲しむ、子供や親や知り合いはどうなるのか、自分の仕事や責任を投げ出して死ぬなんて卑怯だ。この様な意見や言葉は間違っていません、全て正しいと思います。
でも、自分が自殺未遂をもう何回もしていると、ある種の達観した部分で人の死と言うのは受け入れるべき出来事であるのだろうなと考えてしまう部分もあります。

一般的な倫理や道徳観では追いつけない、もう踏み込めない部分へと心が移動してしまった人は、ただただ静かに淡々と日々の中で自分の命を整理していきます。
突然勢いで死んでしまうのではなく、その気持ちへ行き着くまでに高いハードルや高い壁を一人悩み苦しみ、最終的には生きると言う根本にある感覚も、飛び越えて消えてしまいます。

亡くなられた方を思い出すことくらいしか、残された人には出来ないですが、自分の命を受け入れて生き抜いた人に感謝と敬意を払い、祈り手を合わせることも大事です。

僕は会ったことの無いおじいちゃんのお墓に行くと、親族親戚誰よりも長く手を合わせています。物心ついた頃から「そんなにお願いすることがあるのか」と行く度に言われますが笑

ただ、今ここにいない人に手を合わせている間だけはいると思うのです。祈り感謝すると言う行為はお金もかかりませんし、一番身近にこの世では無い部分へ触れられるタイミングが祈ると言う行為だと僕は思います。

本当の死と言うのは、生命の終わりではなくその先にある僕たちの人生が終わり、何千年何万年あとに地球が消えて全てなくなる時だと思います。生きると言う足跡を残し、全ての人間何かしらどんなことでも社会や経済、時代や誰かの人生に爪痕を残しているはずです。

身近な死を受け止めるのは辛いと思いますが、いつか受け止め少しでも受け入れることが出来たら、時には思い出して祈ってあげて下さい。矛盾しているようですが、記憶で生きて手を合わせて感謝出来る間は、まだ誰もそばで生きていると僕は思います。


何だか重ためな話しですみますん、涼しくなりましたので皆様お体に気をつけてお過ごし下さいませ!

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