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叱る依存が止まらない 村中直人 紀伊國屋書店

 「叱る方も疲れるんよ」この言葉を常に身近に聞かされている立場として、「それは叱る方の勝手だろ」、と思っていたが、叱ることのメカニズムを論理的思考を持って解説し、教育的な効果はなく、自己本位な行動であること、さらに解決法まで提案しており、最近読んだ中でも特に感銘を受けた。

 叱るのは怒ると違って教育的効果があるという話を聞いたことがある。この本では、叱ることには教育的効果はなく、叱る側のニーズがあり、かつ依存状態になり得るという事について書かれている。叱るという行為は倫理的、道徳的に良く無いということではなく、単に効果が無いこと、さらに、叱るか怒るかの違いは、単に叱る側の感情の違いのみで、相手にもたらされる効果は同じだというのだ。

 叱ることの本質は、相手に変わって欲しいとう願望があることだ。それを攻撃的に行い、negativeな感情を相手に植え付けることで達成しようとする行為だ。叱る側に権力や決定権があるという不均衡も前提として存在する。さらに叱る側の「こうなってほしい」という願いが、「こうあるべきだ」のような間違った正義感へ変化するとさらに危険な状態が訪れる。「自分は」こう思っているという主体的な行動であるという認識が重要である。

 叱ることがあたかも効果があるかのように感じられる理由として、叱られる側の即時の行動変容が挙げられる。このような本人が自ら決定した行動では無い場合、持続的な行動変容にはならない。単に、苦痛からの回避を行っているに過ぎず、叱られた時にどのような反応をするかという行動を引き起こしているに過ぎない。これは忍耐力が向上したわけではなく、諦めと無力感という、本来の教育的意味合いとは逆の効果を生み出すのだ。もっとも教育的効果が高いのは、自ら主体的に選択し、物事を決定して行っていく行動なのだ。

 叱るという行動の中には、叱られる人への罰則的意味合いがあり、人に罰則を与える事で、与えた人の報酬系回路が活性化する。報酬系回路にはドーパミンが関わっており、「もっともっと」と依存状態になる。依存に陥りやすい人の特徴として、現実からの一時的逃避という側面がある。現実に満たされていない人が、その現実から逃避するために依存にハマっていくのだという。

 懲罰を与えることで人は変わると思われているが、これも近年、麻薬を非合法だけど懲罰化しないという潮流があるように、懲罰では人は変わらないのだ。同じように苦しまないと人は変わらないというのも、誤った認識である。

 恐怖や不安で活性化する扁桃体は、生命の危機的状況に反応し、瞬時に回避動作を行う役目をしている。この、闘うか、逃げるかの反応は、学びや成長とは無関係であるだけでなく、本来の自発的行動による成長に関わる、前頭葉の領域も抑制してしまうのだ。

 軽い苦痛は、すぐに慣れが生じ、行動も変わらないので、叱る側も次第にエスカレートするという負の連鎖を引き起こす。叱られる側に強烈な苦痛体験が生じてしまうと、慣れは発生せずに、その後の人生に苦痛の記憶として色濃く残ってしまう。「お前が悪いのだ」というメッセージを受け続けると、自己評価が上がらず、自責の念が生じ、自分は叱られても仕方がないのだという感情と結びついてしまう。

 では、この叱る依存からどのように脱却できるだろうか。叱る側の目的として、叱られる側に成長して欲しい思いがあることは既に述べた。その成長は、叱られる側の人が本当に望んでいることなのか、それを確認することが大事である。小生も、叱る側の目標に叱られる側が合わせているという現場を今まで見てきた。叱る側は、叱られる側の成長を願って目標を設定しているが、叱られる側からすると、その目標が何ら自分が目指している世界とは違うということがある。しかし、叱る側は、その目標が万人の正義と考えているので、その正義を目標としていないとは、微塵も疑って無いのだ。叱られ慣れている側は、自己効力感が低く、無力感を持ち合わせているので、否定的に権力者にしたがっているに過ぎないことは往々にしてあるのだ。叱られる側に現状を変えようとする希望すらないことも多いので、叱る側である権力者は常に、誰のためのその行動なのかを問い続けなければならない。本書を見てない人にこそ、行動変容は必要そうだけれど…


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