#6 ルックバックを見て

昨日、父親と共にルックバックを観に行った。
特に内容やネタバレには大きく触れないが、気になる人は回れ右だ!

私が実家に住んでいた頃は、私と父の観たい映画が被ると、夕飯終わりにレイトショーでよく映画を見に出かけたモノだ。
それも、私が一人暮らしをし始めてからはなかなかそういう機会も無かったので、随分久しぶりな感覚がある。

映画館内は、珍しく10代後半〜30代前半くらいの若年層で満席。広告を大々的に打っているわけでもないのに、ここまで集客できる凄まじさに観る前から圧倒されて、ドキドキした。

昨年の『君たちはどう生きるか』以降、映画における広告宣伝の意味というものが若干揺らいでいる気配があるが、この館内を見てもはや揺らぎ以上に確信めいた"意味の無さ"へと変化していることを思わせる。

さて、ルックバック。
原作の漫画は公開と同時に読んでおり、あの一連のセリフ改変の騒動も追っていたので、映画版ではどうだろうかと思っていた。
正直、原作漫画以上により"伝わる"感覚が強く、開始10分ほどでボロボロ泣いてしまった。何かしらモノづくりをする人には特に刺さると聞いてはいたものの、予想以上でどうにも心が掻き乱されてしまった。
瞳と光の表現の美しいことといったらない。

普段だとそれなりに冷静に感想を述べられる方なのだが(自分で言うか)今回はそうもいかない。

描かれているのは、おそらく原作者・藤本タツキ先生の内情的なことも多分に含まれているだろうとは思いつつ、それがここまで私自身の内情にも食い込むとは思っていなかったので、もはや戸惑いにも近い心地すらある。

「何故書くのか(描くのか)」という問い。

これは、何かしらの表現に携わったことのある人なら、どこかしらでぶつかる障害のようでもあると思う。
表現というのは、心の内側から湧き起こる、何かを訴えたい気持ち、社会的な意義、誰かへの想いなど、そういうものがあってのことだと思われがちだし、そういうものが"健全な"創作だと定義されてきたと思う。

私も、芸術系の大学入試で面接を受ける際に「自分の作品で、落ち込んでる人を元気づけたい」などと言った記憶がある。

もちろん、その言葉に嘘はないけれど、でもそれがすべてかと問われれば違うのだ。

何のために書くのか。
そこにはきっと何も理由はない。
ただ、書きたいから書くだけだ。

実にシンプルだけど、これに尽きる。
たとえ、数ある分岐の中で書くという選択肢になかなか出会えなくても、あるいは書くということから離れたとしても、書かざるを得ないときがいつかやってくる。

そして、そこから書くことの追求と研鑽が始まり、ときには自分より上手いヤツに絶望し、逃避し、でもまた書き始める。それの繰り返し。

こんなに面倒くさいことがあるかと思う。
でも、やるしかないんだよなぁ。

そんな気持ちを抱えて今日。
私は近所のカフェでずっと構成に悩んでたとある脚本を書き始めた。ロバート・マッキーの本を片手に、無地のノートで考えを整理しつつ、序盤の転換期までどうにか一旦書き終えた。

おかげさまで休日なのに背中は痛いし、眠いし、お腹もすっかりぺこぺこだ。

本当、書くって愛おしくて難儀だよな。

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