#24 反重力のおじさん

朝の散歩に出かけたら、
反重力のおじさんを見た。

反重力のおじさんは、ある日を境に重力に反して空中へ浮かび上がる肉体になってしまったおじさんである。

おじさんは、外壁の金網にしっかりと指をかけながら、両足のつま先を外側に向けて開き、カニのように横歩きをする。ちょうど、バレエの練習をするあの格好に似ていた。

額に汗を滲ませ、一歩一歩を慎重に進めているおじさんにとって外出はもはや死活問題だ。手を離せばたちまち中空へ浮かび上がり、そのまま宇宙の一部となってしまうだろう。

家の中でも油断は禁物で、風呂に入るのはもちろん、シャワーすらも浴びられないから、身体からは常に悪臭を放っていた。

おじさんには、かつて永遠の愛を誓った妻もいたものだが、彼女はおじさんが反重力になってややしばらくしてから家出した。
最初は甲斐甲斐しく世話をしていたのだが、家の中でも気を抜けば天井にぶち当たり、悪い時は突き抜けてしまうので気が気ではない。満足に眠ることはおろか、心を休める束の間の時間すら取れず、とうとう耐えきれなくなってしまったのだろう。

アン・ドゥオールの姿勢を決して崩せないおじさんは、この不便な肉体で日々を過ごさねばならない。見た目だけなら柔軟性もありそうだが、この姿勢を一切崩せないせいで節々はすっかり強張っており、華麗なるアラベスクなんて夢のまた夢だ。

「こんなことなら、いっそ手を離そうか」
とおじさんの脳裏にはいつもこの囁きがこだましている。だが、おじさんは歩くことを諦めるわけにはいかなかった。

どうせいつか宇宙の一部となってしまうなら、その前にかつての妻と再会したい。あの日誓った永遠の愛から彼女を解放してやりたい。
妻が帰ったであろう実家を目指して、アン・ドゥオールのままおじさんは歩く。しかし、反重力は日に日に悪化していた。

おじさんが反重力になった理由は誰にも分からない。ある朝目覚めた時、自分がベッドから浮かんでることに気付いた妻の悲鳴が、すべての始まりだった。妻があれこれ手を尽くすのに比例して、おじさんの身体は重力をますます嫌う。それは妻がいなくなってからも、変わらず悪化の一途を辿っていた。

おじさんの人生は平凡そのものだったはずだ。
ごく普通に学び、ごく普通に働き、ごく普通に妻を愛した。たまに仕事や世間への愚痴は溢すとのの、日々の生活に不満など無かったはずなのに、なぜ身体はこの世界から早く離れようとするのだろうか。
それとも、自分が気が付かないうちに本能が何かの危機を察知し、この世界からの脱出を求めていたのだろうか。

たまったものではない。
脱出するのは今ではない。

さぁ、早く。
妻を解放してやらなくては。
いつか去る男に未練など残してはいけない。
そう思うのは私の傲慢だろうか?

そんなものは関係ない。
だって、そうしないと……
私もおちおち宇宙へ帰れないじゃないか。

「あなた!」
おじさんの耳に懐かしい声が響く。
「どうして」
と呟きかけた瞬間、おじさんは思わず愛する妻を抱きしめようと金網から手を離した。急速に地面から離れるおじさんに、妻がしがみつく。

二人共ものすごい勢いで空へ飛び上がる。
空の向こうで眩しく光る星の照明を受けながら、互いの手を求めて絡み合う二人の姿勢は、夢にまで見たアラベスクの様相だった。

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