#85 子供だけの通り道

今住んでいる家の周りは子供が多い。

保育園や幼稚園が、歩いていける距離の中でもかなりの数があるので、それに比例して小さい子供を持つご家庭が多いようだ。

私自身、子どもは好きだし元気に遊ぶ声は気にならない。昨日はずっと窓を開けて仕事していたが、そうすると家の前の道を小学生らしき男の子が「雨よー降れ降れ」と雨乞いのオリジナルソングを歌いながら歩くのが聞こえた。
こういうのを聞くと微笑ましい気持ちになる。

夕方ぐらいになると、近所の小さな公園で遊ぶ子供たちの姿もよく見るようになるが、中にはマンションやアパートの敷地内を迷路に見立てて遊ぶ子もいるようだ。

ある時、住んでいるアパートとは別のアパートにある、石塀と建物の間を数人の幼い子供たちが歩いて遊んでるのを見かけた。

塀と建物の間はちょうど子供の小さな体でやっと通れるほどの狭さで、傍目に見ていてあんなところを通れるなんてすごいなあと思っていた。

思い返すと、私も小さな頃はそうやって遊んでいた記憶がある。かつて従兄弟の住んでいた家には大きな梅の木がある庭があり、あちこちに色んな植物や花々が生い茂っていた。

従兄弟の家に遊びに行った時は、大抵この庭を探検することが多かった。出窓に面した庭を通り、家の裏手の狭い道を通って時計草の咲く生垣に出る。これの繰り返し。
この狭い家の周りの通り道は、迷路にもなれば逃走経路にもなり、宝のある洞窟にも、タイムトンネルにもなる。想像力の思うままだ。

時々、あの狭い道を通る今の自分を想像してしまう。今いるアパートの近くで遊ぶ子供たちを見た時なんかは特に。

あの狭い道を、大人になった今の体で通ることができるとはとても思えない。特別太ったとか、背が伸びたとかはないけれど、でも子供の頃の小さな体に秘められた駆動力と比較してしまうと、とても無理だと思ってしまう。

私はもう、あの無限の冒険を秘めた小さな隙間を通ることができないのかと思うと、たまらなく寂しい。その分、子供には行けない場所を手に入れたと思いたいところだ。

そんなことを考えながら、ベランダでぼんやりと子供たちのはしゃぐ声を聞いていると、紫蘇の葉の中心に何なら蕾のようなものを見つけた。穂紫蘇が咲くのかもしれない。

世界は今日もひとつずつ、大きくなっていく。

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