“2010年の私から1年後の私へ。”という手紙が出てきたので
母から一通の手紙を渡された。パステルピンクの封筒。裏面の宛名には、身に覚えのあるくせ字で「1年後の私へ」と書いてあった。間違いない。これは確かに私が書いた手紙だ。
そしてこのレターセットも見覚えがある。小学生の時通っていたそろばん教室で貰ったものだ。レトロ、なんて言葉を使えば聞こえはいいが、正直、古ぼったい花柄であまりお気に入りではなかった。
多分、何となく部屋にあったレターセットを、何となく使って書いた手紙なのだろう。そして多分、これは学校の授業の一環で書かされた手紙とみた。なぜならば、手紙の最後から2つめの行に「かしこ」と書いてあったから。素の私はこんな「ちょっとふざけてて面白いでしょ?」を狙った一言なんて書かないつまらない人間だ。おおよそ、隣の席の子が書いていたのを真似したところだろう。「敬具」ではなく、「かしこ」なのが何とも言えない。頭語が何も無いのに、「かしこ」はないだろう。おふざけを狙っているなら「拝啓」も書くべきだ。
大人になった今、こういう「ちょっと面白い」を狙ったとてつもなく面白くない思春期の攻撃力の凄まじさを痛感する。HPはもう10も残っていない。
と、まぁそんな事よりももっと重要な疑問が残っている。“2010年の私から1年後の自分”に宛てた手紙が未開封のまま2021年の私へ手渡されたのだ。「こんなダサい封筒に入った手紙なんて読む気にもならないわ」な、薄情すぎる2011年の私のせいで、時空を超え、11年後の私に再度届いたのであろう。こんな事ならばちゃんと可愛いレターセットを選べばよかった。
適切な時期に読んでもらえなかった手紙と、2010年の私をぎゅっと抱き締めてあげたい。貴方達は何も悪くないよ。
怖々開き、1行目から読んでいく。
『〇〇高校は楽しいですか?』
2010年の私の正体は中学3年生か。しかも明確な高校名が書いてある。合格してやる、という強い意志が窺える。
『今の私は今までに無いくらい勉強をしています』
予想外に数多の時間をかけてしまい、今更だが11年後の私から言わせてもらおう。その勉強量をフルに使う時は来ない。狙っている高校の特色化選抜は、知っている通り小論文と面接で、幸運な事に面接官の中に剣道部の顧問がいたからだ。馬鹿の一つ覚えのように「ケンドー、ケンドー」と繰り返していたらいとも簡単に合格できた。
ただ、今頑張っているその努力と、“適切な時に適切な量こなした努力は報われる”という経験は今も役に立っている。礼を言わせて欲しい、ありがとう。
『どれだけ嫌だ。と思っても、学校を辞めること、休むことだけはしないように!!』
エクスクラメーションマークが2つも付いている。ただならぬ強さと確固たる信念を感じる。思い出した。「時間とお金を費やして入学した学校を辞めるなんて阿呆の所業だ」と刺々しい事を思っていた受験生の頃の私を。11年間で若干の柔軟性を身に付けた今の私からは、「まあ人それぞれ事情があるし、ね」としか言えない。申し訳がない。今の私でも同じ事を考えてしまう。時間とお金は有限だ。限りある物を犠牲にしてまでも手に入れたいと願ったものを、どうして容易く諦めることが出来るのだろう。頑張った過去の自分に失礼だ。
今の私がここにある。それは少なからず、過去の私が努力した証。その努力を自らの手で踏みにじるなんて正に阿呆の所業だ。過去の私に、「あの時頑張ってくれたから、今ここに立っていられるんだよ。ありがとう。」と堂々とお礼が言えるように、恥ずかしいなんて思わなくてもいいように。私は私の努力の積み重ねの上に立っている。泣きながら机に向かったあの時間は、時を経て未来の自分の糧になっている。
ありがとう。
思いがけず出会った、過去の私からの手紙はこれまた思いがけず長い年月を経て、11年後の私の胸を温かく包んでくれた。恥ずかしくもあり、懐かしくもある癖の強い文字と共に、過去の私からのメッセージは心の1番優しい所にしまい込んでおこう。若さを理由にして遠巻きにしていた強い信念と、少し過激な考え方は、額縁に入れて、よく見える場所に飾るつもりだ。
『私が想像する私になれるように…』
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