いや近頃もう涙腺がさ。

おっさんである。
体調面や肉体面等衰えを感じる場面が日々を追うごとに増えている。

朝起きて今日は調子が良さそうだと思うことはもう何年もないし、
不調と感じている体調が1年後にはノーマルな状態、2年後には一番良い状態であるというようにどんどん「普通」のラインが下がっているのを感じる。

ちょっとした段差や水たまりに対し反射的に体が反応する直前に、
いや、この急なリアクションに体の腱や筋が耐えられないかもしれないとSTOPを掛ける様はある意味で人間の本能を知性が抑え込んでいると言ってさえ良いと思う。
先日も下りの階段を踏みはずし、転倒する直前に、
手をついたら骨折ないし脱臼するかもしれないと脳が反応し、
"反射的に"つこうとした手を引っ込め、ただ顎を引き歯を食いしばった結果、背中をしこたま打ち付けながら階下に到着した。

将棋を含むスポーツ全般の観戦歴がいよいよ長くなってきた私であるが、
おっさんとしてのせめてもの矜持として心に決めていることがある。
それはノスタルジックに浸って過去を美化し、
今のファンに向けて、
「あの頃はよかった。今はつまらない。今の選手は対したことが無い。俺らが見始めた頃の選手はレベルが高かった。」

このようなことは言わないと心に誓っているのである。
スポーツ観戦をしていると特に、今の情報をろくすっぽ見ていないOBやオールドファンが昔の思い出話、自慢話、それに対比させての今の選手に対する批判で日々小銭を稼いでいることに辟易としている、というかこれはもう私が少年時代の頃からうんざりしていた事なのである。
私が当時心からうっとおしいと感じていた、
「松井イチローなんて大した事無い。我々の頃の王長嶋はうんたらかんたら〜」
を私たちの世代が、
「村上佐藤なんて大した事無い。我々の頃の松井イチローはうんたらかんたら〜」
とそっくり言い換えてはいたずらに新規ファンを門前払いしつつ、自身もただ老害扱いされるだけである。
かつて私が彼らを老害扱いしていたように。
もちろん王選手、長嶋選手の(私にとっては監督だが)実績にケチをつけるつもりは全く無いし、なにより松井選手イチロー選手を含めて、例題に上がるような競技のアイコンと呼ばれる方々は、自身の実績を盾に若い選手を貶すような真似は絶対にしない人格者である。

そういう意味で将棋界はとても健全で少なくともファンが観戦していて目につくような場所では世代間の相互リスペクトを感じる世界だなと感じる。

例えば加藤一二三九段は確かに、ご自身のお話が多い傾向にはあるが
私の知る限り、一度もご自身の子供世代とも言える羽生九段や孫世代とも言える藤井二冠に対し、敬意を欠いたような発言を見たことが無い。
それどころか羽生九段や藤井二冠に対し率先して称賛の声を挙げているように見える。
しかもパフォーマンスではなく、言葉の端々、振る舞いの隅々から心からのリスペクトが伝わってくるようである。
加藤九段程の将棋界の生き字引、それこそ明治大正昭和平成の棋士と実際に死闘を繰り広げてきた足跡を鑑みれば、うっかり我々が若い頃の棋士の方が凄かった、と口にしても良さそうなものだが、対象を比べることもせず、
誰も貶すことなく、ただ称賛をする姿に感銘を覚えるのである。

この期に及んでディープインパクトもアーモンドアイもルドルフの足元にも及ばないなどと遠吠えている競馬ファンに是非爪の垢を進呈して頂きたいものである。

プロの将棋界はコンピュータソフトでの研究も普及し、いや、普及どころかほとんど必要最低条件と化し徹底的に合理化が進み、普通のスポーツであれば今タイトル争いを席巻している若手世代が、先輩たち、誤解を恐れずに具体的に言うと長く圧倒的に支配をしてきた羽生世代と呼ばれる棋士達を多少ロートル扱いしてもおかしくない時期に入ってきたと言っても良い頃だと思う。
しかし、今の渡辺名人、豊島竜王、藤井二冠、永瀬王座をはじめ新世代の強豪棋士からは微塵もそのような雰囲気を感じられないのである。
ABEMAトーナメントのドラフトで菅井八段が郷田九段深浦九段を指名された時も心からのリスペクトが感じられた。
さらに先日の放送での豊島竜王がチームメイトの佐々木五段が羽生九段に惜敗した時にぼそっと言った羽生九段評
「少し模様がいいくらいじゃ勝てないですね」
という言葉は私には衝撃的だった。

緻密な序盤戦術、時間の使い方、正確な読み筋で圧倒する今の豊島竜王から見ても今の羽生九段の力は上記のような評価なのである。
明らかにリップサービスなどではない本音が垣間みれて、
なるほどあれだけ正確無比な豊島竜王をもってしても羽生九段の大局観は脅威なんだな、と感じたのである。

老害と呼ばれたくないおじさんこと私であるが、
これはおっさんの自由でしょ?というものを主張しておきたい。
誰を応援するのか?ということである。

いつくらいからだろうか。
特定の応援している棋士がいない対戦を観戦するときに、分かりやすく言えば、日曜朝のNHK杯なのだが、
年配の棋士の方を応援してしまうのである。
若い頃は成長著しく壁をなぎ倒して進んでいく、新進気鋭の若手の肩を持っていたのであるが、いつからか、
時代の流れ、自らの衰えに抗いながら、歯をくいしばって踏ん張っている年配者の肩を持って観戦するようになった。
生活感が透けて見えれば見えるほど、哀愁が漂えば漂うほど良い。

おい!諦めるな!なんか探せ!
息子にかっこいいとこ見せるんだろ!(息子がいるかどうかは知らない)
年老いたかーちゃんが応援してるぞ!(ご両親が年老いてるかどうかも知らない)
最初は今日はまぁどちらが勝ってもいいかなぁと思いながら始めた観戦がいつの間にか熱を帯び、息を切らせながら応援しているのである。
圧倒的な読みの速さ深さに気圧されながら、自らの衰えを認識し、脂汗をかきながらただ最善手を探すために盤上に没頭するメガネのおじさんをたまらなくかっこいいと思ってしまうのである。

また、特に早指しの棋戦が顕著だが、
おじさんは勝ち切った時の疲労の度合いが半端ないのである。
研究十分、早見え早指しの若手に対し、序盤から湯水の如く時間を使った結果、なんとか互角かちょっと悪いくらいで終盤に突入し、
時間が無いなかで暴走しないように自分を戒めながら入念に読み進め、
胡散臭い勝負手を繰り出しながら、なんとか勝勢に持ち込んだのもつかの間、自分より早く正確でなおかつ時間のある若手が猛然と追い上げ、追い詰めてくるなか、体を揺らしながら慎重に、いや、果たして慎重が本当に正解なのかどうかと自問自答し、時間いっぱいまで考えた手に、即座に対応された手を見て、しまった間違ったのか?いや、観念したのか?と疑心暗鬼になりながら”ほうほうのてい”でヘッドスライディングでゴールに着地したおじさんはもうなんというか、動かないが、いや、本当に動けないのだろうが、
疲労感、達成感、緊張感、罪悪感、自制心、あらゆる感情がそれこそ、スーツの内側の汗までもが透けて見えるほどに神々しいのである。

なんなら、家族構成も知らないが勝手に対局後に帰宅し、子供や奥さんに
「勝ったよ。」という報告する様子まで妄想しちょっと泣けてきてしまうのである。(木村九段が王位を獲得した際には勝手な妄想で本当に泣いてしまったのは言うまでも無い。)

登り坂を一心不乱に駆け上がる若手棋士ももちろん素晴らしい。
光り輝いて見える。
ただ、登って来た時よりも急になった下り坂から転がり落ちないようにしがみついて踏ん張っているおじさんもまたかっこいいのである。
折れちゃうかもしれないと手を引っ込め歯を食いしばったままなす術なく下まで滑り落ちていく私とは大違いなのである。

将棋に限らずスポーツ観戦全般、こういう気持ちで観れるようになったのも自分がおじさんになった醍醐味のような気がする。
そう思うと、味わい深くおじさんになるのも悪いことばかりじゃないのかぁと思う日々である。

最後に、ひとつだけ。
今のF1はクソつまらない。こんなもんはレースとは呼べない。
昔の方が良かった。

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