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男はいつも、鮮やかな黄色の鞄を持って待ち合わせ場所へ現れる。

足取りは軽く、気配もほぼない。スッと女の背後に近寄り、自然と女の横に並び歩みを促す。

女の頭の中には、いつも茫漠とした不安が広がっている。その不安がなんなのか、微かに含まれる悲哀がなんなのか。その正体を知っているのかもしれないが、本能が知らないふりをさせている。

男は軽やかな足取りでいつもの坂道を登っていく。女は少し遅れて、時に足元をもたつかせながらついていく。坂道と細いヒールの相性はすこぶる悪く、歩みをたどたどしいものにさせてしまう。

猥雑に立ち並ぶライブハウスやコンビニの前には、自由なファッションに身を包んだ若者たちがいつもたむろしている。彼らの目に自分がどう映っているのか、あるいは若者たちはこれから起こる何か面白いことに夢中で、自分のことなど目に入っていないのか、女はうつむきながらぼんやりと考えている。人は自分が思うほど、いつだって自分に関心を持ってはいない。

二人はそのまま、”いつもの建物”に吸い込まれるーー。

いつでもこの小さな部屋は、あらゆる理性的判断を女から奪う。安っぽいおもちゃ箱のような、それでいて、そこで過ごす短い時間に対しては必要以上の機能を持ち合わせた、不思議な空間。

男に促されるように部屋へ入る。オレンジ色のペイズリー柄のベッドカバー。天井に埋め込まれた空調からは、轟々と音をたてて冷風が流れ落ちてくる。男にそっと合図を送ると、一人で浴室へと向かった。

日頃からジムで鍛えあげているという男の体躯は、いつでも自信と傲慢に満ち溢れている。それに反し、いよいよ中年太りのはじまった自分の肉体に到底嫌気がさしている。

裸体を晒し合う時はいつだって、容姿に自信のある者が勝者だーー鏡に映る自分から目を逸らすように、温めのシャワーで体を洗い流す。こういった場所に備え付けられたボディソープは大概「無香料」だ。その意味を知ったのはいつ頃だっただろう?そんなことを考えながら、一方で身体の底から沸き起こる衝動のはざまで、女はまた茫漠とした不安に包まれている。

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他人の身体の厚みを感じることは、とても非日常的な体験だと感じる。視覚ではなく触覚で、嗅覚で、あるいは味覚で、他者の身体を自分のものにできる瞬間をほかに知らない。不安をねじ伏せるような男の身体の重みに、いつでも屈してしまう。男の内側から発せられる熱や汗は、あたかも自分のために施されるご褒美のようだ。

時折その甘美な感覚に笑みを浮かべている自分に、女は気づいている。しかし次の瞬間には男に体勢を組み替えられ、予想もつかないような肉体的な快感(ときには苦痛)に顔を歪めさせられてしまうのだった。

事が終われば、女はいつも置き去りにされた子どものような心細さに支配される。たとえ時計の針が何周したとして、恍惚に浸れる時間はいつだって一瞬だ。この甘いお菓子はいくら食べても女の肉や血になる事がない。口の中で一瞬で溶けてなくなる綿菓子のよう。

残された短い時間の中で、女は自分を「取り戻す」覚悟を決める。という事は逢瀬の間、女は自分を「明け渡している」のだろうか。そんな事を考えはじめた途端に、また頭の中が霧に包まれたようにぼんやりしてしまう。しかしぼんやりが許される時間は、もう残されてはいないのだった。

一方で男は、あっという間にその軽やかさを取り戻す。一寸前まで女の視線を執拗に捉えていた瞳の甘やかさはすでに消え、まるで羽が生えたかのような軽やかさで遠くへ去っていく。その後ろ姿を眺めながら、女はすべてを諦める。

一人になった帰り道、いつでも心は空っぽだ。足元も、もはやもつれてはいない。むしろ強く。ともすれば軽やかに女は歩き続ける。

「ようやく自由になれた」ーー不思議な開放感を噛み締めながら、女はヒールの靴音を響かせて雑踏の中に消えていった。











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