重症患者の症例を紹介します。(現代短歌病)
本来はこちらには投稿せずにおこうと思っていたのですが、某大手サイトに書いたレビューが忖度なのか、圧力なのか、消されてしまったので、こちらに書くことにいたしました。もはや歌人も出版社も書店も、今の腐ったヒエラルキを守ることに必死なようですが、ダメなものはどうやってもダメです。辛辣なレビューに耐えられないようなものは、まがい物だと自白しているようなものなのです。
川野里子さん 「ウォーターリリー」 短歌研究社
実はこの歌集、面白いです。
だって師匠のミルクさんが「ダメ」と言われていることを片っ端から
「やっちゃってます」。(多分見せたら憤慨されて即刻燃やせと言われそうです。)
もう結構重鎮に近いポジションの方ですけれど、「自己愛の悪魔」の浸食に気付けなければこうなってしまうという、重症患者の一人です。
本当に何度言っても書いても、旧仮名バイアスの事が解っていないどうしようもないおバカさんが減らないことに辟易しています。いい加減に「見え透いた化粧」に見切りを付けなければ、和歌にまで悪影響が出かねないでしょう。
旧仮名の時代はそれしか表現方法がなかったのでそれを使っていたまでで、時代が他の選択肢を用意したのなら切り替えたり、移行していくことが普通だと思います。
以前から同じ事を何度もお話していますが、旧仮名を使う人は計算して使っています。
「古の言葉は趣があって響きが美しい」などと御託を並べるひとがいらっしゃいますが、1000年前のものは道端の石ころだって何だって趣があるでしょう。端から強いバイアスが掛かった状態で言葉を選び、古を演出しようとしていることは見え見えです。自分のこだわりなのか、結社のこだわりなのか知りませんが、それがどれだけ作者の自分勝手な思い込みなのかよくわかる歌がありますので、考えてみて頂きたいと思います。
「がんばらう日本」聞こえ来ぬ埠頭 わづか離れて病む船浮かぶ
(ウォーターリリー 川野里子 短歌研究社 )
地方の方言ならばまだしも、一体誰が「がんばらう」なんて書いているのでしょうか?
また、口にしているのでしょうか?それでも使わずにはいられない心根には、当事者にはまるで関係がない外部の人間の冷たさや思いやりの無さが滲み出しています。言葉の雰囲気遊びをしているような状況ではないのです。震災があり、疫病があり、どん底の中から這い上がろうとしている方々の心意気やエールを、ただただ自分の歌のエッセンスで踏みにじってしまっていることに気が付いてはいないのでしょう。馬場あき子さんに叱られるのかどうかわかりませんが、なせ素直に「がんばろう日本」ではいけないのでしょうか?
こう言うと、途端に「文体や仮名使いを統一云々・・・」としゃしゃり出てくる輩がいますが、歌にとってどっちが大切なんだという話です。
旧仮名でノスタルジーを演出して見えない加点を期待することが止められず、何でもかんでもセピア色にしておけば雰囲気が出るといった愚かな考えでしょうか。プロの歌人であればAIに頼らずとも脳内でモノクロにしたり、天然色にしたり自在に表現してほしい所ですが、とおり一辺倒にモノクロにされたのでは、ただのやっつけ仕事に過ぎません。
「病む船浮かぶ」もどうかと思います。船は望んで病んでいるわけでもないですし、がんばっていないわけでもありません。むしろ隔離されたような厳しい環境の中で静かに事態を受け入れているというのに、何だか偏見をもって詠まれているようにも感じます。
「ウォーターリリー」睡蓮のことだそうですが、あまりに言い回しが気に入ったのか詠みまくっています。
誰も作者が対象をどのくらい気に入っているのかなんて全く解らないし、想像もつきません。けれども再三にわたって「ウォーターリリー」「ウォーターリリー」の連呼。
モネの絵やモネ自身への着想があったとしても、これだけ押しつけられれば嫌いになりそうです。とにかく知ってしまった強い言葉、珍しい言葉、複雑な言い回しを使いたくてしょうがないのです。これらは大学短歌会の頭でっかち歌人達にも共通して言える安直な詠み癖だと思います。言葉に引っ張られ、言葉に支配されていることに気付けていないうちは、本当の短歌など詠めるはずもありません。
伊方をイ・カ・タなんてわざわざ区切る意味もありません。お向かいの大分県のご出身なのに、原発のことなどまるで他人事の社会詠モドキが続きます。
スノードーム症候群の一般症状、ことさらに大げさな落差信奉による表現も後を絶ちません。
フェリーのことをわざわざ鉄の船と言ってみたり(鉄以外のフェリーがあったら教えて欲しい)とにかく大げさな言葉遊びによる表現が目につきます。
水田の歌の「夕焼けは返り血を浴び・・」
歯ブラシの歌での「生き延びた朝によるに・・」「そこにある宇宙の闇に・・」
息子の部屋の歌での「世界中のゴミ打ち上げられて・・」
ゴミの歌の「超新星爆発まぢか・・」
原発の歌の「牝鹿に還り舐めにゆくウラニウムなほも鎮まらぬ・・」
カツサンドの歌の「豚の死を挟み・・」
満月の歌の「人類最後の胎児のやうに」
(ウォーターリリー 川野里子 短歌研究社 )より抜粋
そうかと思えば、「心臓の鼓動」なんて再三出てきます。
鼓動と言えば普通心臓のことでしょう。まるで小学生のような言葉選びです。
そしてそんな中でも一番許せないのは、リスペクトや愛が全く感じられない歌がとても多いことです。
「やすらぎ」「愛」「心」「永遠」なんだかなあ稚拙な詩となり墓石ならぶ
(ウォーターリリー 川野里子 短歌研究社 )
自分は高尚な文化人とでも言いたげな、解りやすい言葉の並んだ墓石を読んだ歌ですが、そもそも墓石には故人の想いや故人を偲ぶ残された人達の切なる想いが込められています。「ただ恰好良いから」「見栄えがするから」などという理由で言葉を彫ったりしないものです。作者からはそれが「稚拙な詩」に見えたのですから、もう人として終わっています。隠された想い、託された言葉を読み取る能力が完全に欠如していると言わざるを得ません。なぜ奥底にある心情にまで思索が届かないのでしょうか?
植毛やヘッドや角度の工夫して歯ブラシ並ぶ哀しき微差に
(ウォーターリリー 川野里子 短歌研究社 )
それはそれは偉い文学者様に比べれば、歯ブラシの開発や研究はつまらない仕事に見えるかもしれません。
けれども使う人のことを考えて必死になって研究や試験やチャレンジを日々続けているのです。
これだけ安く買えて便利に使える道具のことを人が気にも留めないのは、もはや誰も気にも留めないレベルまで完成し昇華している製品だということです。
作ってくれている方々への尊敬が微塵でもあれば、「哀しき微差」などという戯言は言えないはずです。全くもって看過できない短歌です。
だったら自分で歯ブラシ1本、一から作ってみて下さいよ。
師匠のミルクさんが、なぜ執拗なまでに「感じろ」「汲み取れ」「見いだせ」「気付け」と言われているのか、ほんとうによく解りました。
いったい、この歌集の歌は誰のためのものなのでしょうか?
「自分が大好きで、自分に纏わり付いた日常が大好きで、自分が感じたことは特別で、自分の言葉は発見で、自分の歌は輝いている」と思い込んでいるお馬鹿さんの作者のためのものなのでしょう。
あとがきには「短歌の役割は耳を澄ますこと」なんて綺麗事が並びますが、
一体どうやって澄ませば、こんな横暴で自分勝手な歌が作れるのか、不覚にも笑ってしまいました。有名結社の編集委員でもあり、TVに出ているプロの選者様ですよ。
この歌集を読んであらためて気付いたのは、ミルクさんの歌のように「共有したい」と思えるものがある短歌の反対側には、「共有したくない」という感情を引き起こすゴミのような短歌もあるのだということでした。
・群れないで 取り込まれないで 媚びないで 歌に向き合う 権威ではなく
同じ社会詠でもミルクさんの歌にこのような侮蔑を感じた事はありません。
その根底には深い「愛」が満ちているからでしょう。
最も美しい花は、水面にその姿すら見せないものなのかもしれません。
ミルクさん 短歌のリズムで https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/