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「一読瞭然」「一首自立」という流儀

 ミルクさんの歌を読んでいていつも感じるのは、とても解りやすい違和感です。
「どこかで読んだ、目にした、聞いた、ことがない言葉や表現」で常に構成されていて既視感や既読感に苛まれることは全くありません。
そもそもそれがミルクさんのスタイルであり、ミルクさんの歌たらしめる根幹でもあると思うのですが、有名な歌人達の名歌、秀歌と言われる歌の中にも「キラーフレーズ」が簡単に他の言葉に置き換わってしまうような安っぽい作り方が多く見られます。
連作に気を取られてその一首に力が入らないことも理解はできますが、簡単に置き換えられるということは解釈の手綱を放してしまうことに繋がりかねません。
ミルクさんの作歌の流儀でもある「一読瞭然」「一首自立」からすれば、到底認められない歌や歌人が溢れている中で、何も考えず安易に「短歌作ってみまぁーす」なんて投稿を続けていたら、いつの間にか既視感と既読感の渦に巻き込まれて何処かの誰かの短歌と似たようなものばかりになってしまうことは、「うたの日」などの投稿サイトを見れば明らかでしょう。

「一読瞭然」とはミルクさんがおっしゃられた例えですが、一度読んだだけでも歌意の輪郭がつかめるくらいに解りやすくなくてはいけないということだと思います。作歌するにあたってごく当たり前のことだと思いますが、昨今は全く逆の「一読漠然」をよしとする風潮に溢れています。それを感性とか尖鋭などともてはやす傾向にもあります。
確かにミルクさんの歌の中にも「一読瞭然」とはいかないものもあります。(私の勉強不足かもしれませんが)たとえば「嬰児の笑みが・・」の歌などです。強烈なメッセージ性を持つ歌ですが、その内包するパワーが強ければ強いほど、比喩で置き換えることは難しくなり、一読のもとにとはいかないケースもあるようです。けれども全体をみれば総じてミルクさんの歌は簡単明瞭でストンと腑に落ちるものばかりです。目指すべきところ、心がけなければならないこととして「一読瞭然」が貫かれている気がします。

辞書が無ければ読みも意味もわからない難しい言葉を、さも「こんな言葉がありますよ」という上から目線で使いたがる歌人、頭の中だけで作ったことが見え透いている学生短歌系の薄っぺらな歌人、歌意がすぐに理解されないということを楽しむような意識高い系のファッション歌人、未だ旧仮名のノスタルジー加点妄想から離れられない重鎮歌人、残念ながら世の中の短歌の殆どはこういった輩で埋め尽くされています。ミルクさんがこういった今の歌壇を全く認めないのは、ひとえに「言葉をもてあそんでいる」自称歌人が多すぎる為だと思います。

「一首自立」はよくブログの方でも出てくることばです。
プロの歌人の連作が時に読者をがっかりさせるのがこの「一首自立」を蔑ろにしているであろう、(前後のつながりの中でしか意味がわからない歌)つまらない歌の存在だと思います。だからといって(秀歌)(秀歌)(秀歌)(秀歌)で埋め尽くせと言っているわけではありません。どのような場面の歌にも(気付き)(発見)(悟り)を埋め込むことは可能です。これらのエッセンスを無視して、ただの情景、心情描写ばかりで綴っている歌集(特に生老病死系)は、ほんとうにつまらないと思います。

こちらで紹介した中では、「時間が少しだけ立ち止まってくれた気がした」がちょっとした連作のようになっていますが、ほぼその歌一首でも成立するものばかりで、何も秀歌を連発しなくてもそれぞれが自立しながら鮮やかな全体情景描写の一端をきちんと担っていることがよく解ります。
ただそこにある情景や起こった出来事を綴っただけの歌はたくさんありますが、大方は見たままの「ただの報告」に過ぎません。それはもはや短歌とは言えません。それは心が少しでも揺れた(反応)した痕跡が何も含まれていないからだと思います。

・怪人は礼儀正しく誘拐し宙返りして拍手をもらう

一読しただけでは確かに見たままを詠っただけの短歌に思えます。しかし、
幼いミルクさんの実体験なのかどうかは解りませんが、少なくとも2回、子供は声を出して反応したのでしょう。怪人がとても律儀に子供を誘拐する様子や、重い着ぐるみ姿にも関わらず軽快に宙返りを披露した瞬間などです。その瞬間や情景を詠うのが短歌の役割だと思います。ミルクさんの手に掛かれば、短い音の中にでもこうやって瑞々しい鮮明な光景を潜ませることが可能なのです。

”事象のカステラの断面”

とは本当によく練られた解釈だと思います。

どこを切るか、何で切るか、どうやって切るか、カステラ(ありふれた日常)という単純な題材だからこそ、試されているのです。

ミルクさんは決してご自身では「一読瞭然」「一首自立」を声高におっしゃることはありませんが、(あたりまえのことなので)作られた歌を読んでいれば否応なしにビンビンと伝わってくるものです。それくらい一首に掛けられている時間(情熱)は濃密なものなのだと想像できます。
簡単明瞭な言葉、どこにでもある表現、単純な漢字しか使われていないのに、心の奥深い所まで染み込んでくる強さを兼ね備えているのです。
意味の無い旧かなや雰囲気だけの古語表現を排し、音だけで聞いても同じように歌意に収束させる技巧は直ちに真似できるようなものではありません。

ミルクさんはご自身が少数派であることも、今の大衆短歌とは一線を画すスタイルであることも気にも留めずに、ただただ自身の目指す頂きに向けて歩を進めておられます。
私などは「まだ、この先があるんですか?」と問いたくなる程、裾野の端から眺めているだけですが、訳もわからず不躾にコメントやメールを出したおかげで、こうやって本物の「師」という人に巡り会えて本当によかったと思っています。
※人なのかどうかはあくまで想像です。なにせ何処に住んでいる誰なのかも知りませんし、もしかしたら宇宙人かもしれません。多分、人だという認識です。(笑)

ブログや私のnoteのアクセスを見ても、ミルクさんの短歌に共感、共鳴している人はとても少ないことがわかります。素人風情が小賢しいなどという批判もあるでしょう。しかし時間が経って残るものは本物だけです。それも心の中にひっそりとだけ残ります。私の中には他の誰の歌よりも、ミルクさんの歌が残り続けているのです。

・その人を思い浮かべるまどろみに歌は脳裏を駆け上がり来る

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/