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三陸大津波

今日で東日本大震災から11年です。未だに行方がわからない方の一日も早い発見と、震災で亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。

僕も震災を経験していますが、色々と今は書けない事もあり、あと10年ぐらいしたら当時の体験を書こうかなと思っています。
今日は三陸地方が度々襲われてきた津波の話を書こうと思います。

三陸地方は古くから度々津波の被害に遭ってきました。

記録に残っているところでは貞観地震じょうがんじしん(869年)による大津波、慶長大津波(1611年)などがあり、明治以降では、1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波、1960年のチリ地震津波、そして2011年の東日本大震災による平成三陸津波があります。

地層を調べると津波による堆積物があり、慶長大津波を含めてそれ以前の3,500年で7回のM9級の地震による津波が発生していることがわかるそうです。

ご存じのように三陸沿岸はリアス式海岸で、鋸の歯のように細かく入り組んだ海岸線が特徴です。湾口から陸側に行くにつれ、急激に狭く浅い入り江になるので、沖合から襲来した津波が行き場を失くして高い波高になり、威力を増すために被害が大きくなる傾向にあります。

さて、この明治、昭和、チリの三陸津波について、生前義父が僕宛に書いてくれたレポートがあります。

義父は、家内の実家に行って取り留めも無い話をした時に、自分の経験した事や知っている事があると、レポートにまとめて後日僕にくれる人でした。今回はそのレポートを元に編集してみました。

明治三陸津波(1896年6月15日 明治29年)

義父の母方の祖父は菊池鐵藏きくちてつぞうといい、岩手県釜石市で生まれ育ちました。
鐵藏は明治三陸津波の時、まだ10歳にも満たない子供でした。

津波に飲まれて沖へ流され、あたり一面に浮いている壊れた家などの木材に掴まり、二日間漂流しました。その時に耳を負傷し、左耳の上半分が欠損したそうです。

鐵藏は沖に流されている時に、父丑松うしまつが漂っているのに出会い、丑松から「頑張るんだぞ」と励まされましたが、その後何度も寄せては引く津波に別れ別れとなったそうです。

やがて鐵藏は、鼻や耳に砂を詰まらせて失神状態で浜辺に打ち上げられているところを奇跡的に救助されます。運び込まれた家で布団を敷いて、そこに菊池家からよそへ嫁いだばかりの伯母さんが素っ裸になり、抱いて暖めた事で息を吹き返しました。

幸い丑松もその後、陸に上がる事ができましたが、200年以上続いた菊池家は丑松と鐵藏の二人を残して全滅してしまいました。

昭和三陸津波(1933年3月3日 昭和8年)

鐵藏の長男「助左右衛門すけざえもん」は、仙台市立商業学校(現仙台市立仙台商業高等学校)に在学していました。

義父の母はまだ結婚しておらず一人身だったので、助左右衛門の身の回りの世話をするために二人で家を借りて、仙台で生活していました。

当日は仙台でも強い揺れを感じ、やがて沿岸部に津波がきたらしいという話が伝わってきたそうです。当時は通信手段も無いので、二人で実家へ向かったそうです。

その時現地で助左右衛門が撮影した写真があります。当時カメラは高価なもので一般の人はあまり持っていませんでしたので、貴重な映像かと思います。
そして恐らく本邦初公開になります。

家屋は全て倒壊し火事の煙が充満している
船が陸に上がっている
恐らく小川川に架かる 七の橋
1枚目の遠景か
辺り一面泥だらけ 恐らく港付近
右上に神社があるが場所を特定できず 街の中心部か

チリ地震津波(1960年5月24日 昭和35年)

義父は当時サラリーマンをしており、5月23日から青森への出張を命じられました。

23日月曜日と24日火曜日を、青森市内で営業する事になりましたが、当時は交通手段も労働環境も悪く、22日日曜日の夜に夜行列車で移動し、23日は朝から1日営業を行い夕方宿で一泊、24日も朝から1日営業をして、夜行列車で車中泊をして25日早朝に仙台に着き、家で着替えて出社するという今では信じられないようなスケジュールでした。

24日に、どうも津波が襲来したらしいと営業先で耳にしましたが、青森市では津波があるわけでも無く、地震の揺れも感じなかったので、実感は無かったそうです。

営業を終えて夜行列車に乗り込み、疲れからか爆睡していましたが、そろそろかと目を覚ましてもまだ仙台には着いておらず、途中の駅で長時間停車していたのか、だいぶ遅れて仙台に到着したそうです。

帰宅すると義父の母が「実家が心配だから釜石に行ってくる」と、入れ違いで出掛けて行きました。
一週間後に母は戻り、今回は釜石の死者は大変少なかったと話していたそうです。

その理由と言うのが、前の晩に名人と呼ばれる老漁師が船で漁に出たのですが、その日はなかなか成果が出ず苦戦していたそうです。そのうち底の方の水が沖に向かって強く引いていくのがわかり、津波が来るから逃げろと周りにいた若い漁師たちに言いましたが、あたりを見渡しても海面に変化は無く、若い漁師たちは気のせいだと老漁師を宥めはじめたそうです。

しかし老漁師は津波が来るから逃げろと言い続け、若い漁師たちも漁をあきらめて帰港しました。老漁師はそのまま行政に伝えたところ、過去に何度も被害に遭っている釜石では、すぐに有線放送で避難を呼びかけたそうです。

おかげで津波が襲来した時には、ほとんどの市民は高台に避難して無事だったそうです。

チリ津波の時は、義父の家にはテレビが無かったので近所の人の家でテレビを見せてもらい、チリ津波の報道に見入っていたのですが、その中で印象的だったのは、当日の国際線のパイロットが太平洋上で一直線に白波を立てて進む津波を目撃し、直ちに無線で報告をしたとインタビューに答えていたシーンだったそうです。

津波到達の10時間以上前に報告したにも関わらず、当時は情報共有の概念が薄く、この情報は活かされませんでした。

そんな中で釜石市が漁師の情報を元に迅速な対応をして、被害を最小限に食い止めた事はもっと評価されてしかるべきで、世に知らしめたいと、義父のレポートは結ばれていました。

おわり


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