見仏上人シリーズ 瑞巌寺
一か月ほど前に「宮千代の話」を書きました。
読んでいない人や時間が無い人向けにざっくり書くと、
昔松島のお寺に大変歌の才能のあるお稚児さんが住んでいて、師匠の制止を振り切って、都で歌の勉強をしようとお寺を抜け出します。
宮城野原という広大な草原地帯に来た時、歌を読もうとして悩んだ挙句、馬から落ちて死んでしまいます。
それからというもの夜な夜な化けて出て来るのですが、お師匠さんの見仏上人がそこを尋ねて、幽霊の読む上の句に続く下の句を読んでやると成仏する。
というお話です。
で、その時に見仏上人って実在するのかと調べてみたら、実在した人で結構なスーパーマンだったらしく、いつか記事にしてみようと思い、資料をあさっていました。(残念な事に肖像画は残っていないようです)
調べていくうちに、見仏上人を語るには、松島の瑞巌寺についての説明が必要で、瑞巌寺の前身である松島寺の説明も必要、さらには松島にある雄島という小島の説明も必要で、そうなると西行法師の話も絡んで来る、というまとまりなく話が広がるような予感がしました。
一度に書いても長い話になってしまい、読む方も読む気が無くなってしまいそうだったので、シリーズにして、小分けにして書く事にしました。
まずはシリーズ第一弾は瑞巌寺から。
僕たち宮城県に住んでいる人なら、瑞巌寺と言えば、ああ松島の瑞巌寺ねという感じですが、他県の方にしてみたら、ただの地方の寺なので、知らない方も多いかと思います。
前身の松島寺から政宗が改築するまでの話は、別の機会に書きます。
95世住持陽岩の頃、伊達政宗は岩出山から仙台へ居城を移しました。
その翌年、慶長9年といいますので1604年の事、政宗は海の上から解脱院地蔵堂を見ました。
松島の医師真山玄川が永遠の菩提を求めて造営したという話を聞いて「一介の医師ですらこのような功徳を施す。自分は大国を有しながらそのような志を持たなくてどうする。この地に伽藍を立てて子孫に福徳を贈ろう」といいました。
政宗は自ら縄張りを行い、紀州熊野から良材を取り寄せ、全国から名工130人を集めて工事を始めました。
4年の歳月をかけて竣工した瑞巌寺は、松島青竜山瑞巌円福寺と名付けられました。
妙心寺派に属していたので、新築なった瑞巌寺の住持には、虎哉和尚(政宗の禅の師匠)が妙心寺に要請し、津山から海晏禅師が来仙し、96世住持に就きました。
その後政宗は瑞巌寺のますますの発展を願い、名僧の誉れ高い雲居和尚に人を遣わして招請しますが、辞退されます。
その志に感じ入るところがあった政宗は重ねて招請し、雲居もこれに応えます。
雲居が瑞巌寺に到着したのは、政宗薨去後の1636年8月10日の事でした(政宗は5月24日に亡くなっています)
99世住持となった雲居は中興の祖として精力的に活動し、瑞巌寺は隆盛を極めました。
昭和28年には本堂が、34年には庫裡と廊下が国宝に指定されました。
平成20年からは10年をかけて大修理が行われ、今に至ります。
瑞巌寺は堂内撮影禁止なのですが、ホームページで3Dツアーを見る事ができて、通常は入れないところもアップで見れます。
さらには、画像をコピーして使用しても構いませんとありましたので、一部を紹介します。
中は派手好みの政宗らしく、非常に美しい装飾が施されていますが、稀代のへそ曲がりの政宗が仕掛けたいたずらとも呼べる設備があります。
上段の間、政宗の左側に更に一段高い部屋がありますね。
上々段の間は天皇や皇族をお迎えするための部屋で、青葉城(仙台城)にも設けられていました。
実際は当時天皇がみちのくの田舎まで行幸する事などはあり得ないのですが「自分は徳川の臣ではない。自分が仕えるのは天帝だけだ。万が一の行幸に備えて部屋を用意しているぞ。将軍家の部屋は無いけど」という意味が込められた部屋です。
徳川家の治世になり、渋々矛を収めた政宗が素直に従いたく無くて、作った部屋です(と僕は思っています)
ここに実際に天皇が泊まるのは、1876年(明治9年)6月27日の事。
東北巡幸の際、270年もの間その出番を待っていた上々段の間に、明治天皇が一夜を過ごしたのでした。
まさか政宗も本当に天皇がお泊りになるとは思ってもいなかったでしょうね。
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