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「もの」と「こと」について。世界を切り取る二つの見方

「自己と時間」(木村敏 著)という本をちょっと読んだ。おもしろかったので、考えたことを書いてみる。

この本では「もの」と「こと」という概念を扱っている。たとえばスマホは「もの」だが、スマホを使ってなんか調べるのは「こと」である。

・もの=対象…客観的に切り取ったもの

・こと=経験…主観的に感じ取ること

こんな感じ。

自分という人間も、写真におさめられたり、名前をつけられたり、人数としてカウントされたりするとき、「もの」になっている。いっぽう、何かを体験しているときの自分は「こと」の渦中にある。

生きているという生身の感覚は、「もの」ではなく「こと」にある。

「もの」は数えることができる。現代は、時間さえも「もの」化する。「何時から何時まで」「今から何分間」というふうに、客観的に計算して、計画を立てたりできる。

東京事変の「能動的三分間」という曲があるが、あれは「もの」としての「三分間」から「能動的」になることによって「こと」へと羽化する曲なのではないか。さようなら(もの)、はじめまして(こと)。

SNSは切り取られた「もの」のショーウィンドウだ。インスタにはたくさんの「もの」が美しく並べられている。「もの」は切り取り方によって、いくらかの嘘をつくこともできる。

だが、そこで交わされるやりとりの体験は「こと」である。「こと」は生身の体験、感覚であり、嘘をつけない。「もの」と「こと」、「嘘」と「本当」が一見区別なく入り乱れるのがSNS空間なのかもしれない。

言葉は「こと」を「もの」にする

「こと」は、それを言葉にしたとたん、「もの」になる。言語化とは、なにかを対象化、客体化することだ。

客体化された言葉は、ただの情報の塊になる。だからこそ、人とやりとりできる。そこにはロジックがあり、つじつまがある。

しかしもともと「こと」が持っていた生気みたいなもの、実感のようなものは、言葉にするとき失われる。失われるというか、閉じ込められる。それはフリーズドライのように文字のなかに保存され、読み手がお湯をかけることで蘇る。

お湯とは、読み手の感性だ。蘇るかどうか、どのように蘇るかは、読み手にかかっている。だから、書き手の実感とはちょっと違った形で蘇る。

個人的には、言葉の音数や句読点の置きどころなどのリズム、テンポみたいなものに生気が保存されている気がする。そこをきっかけに、言葉から「こと」が蘇るような感じがする。表現があいまいになってきた。そう、「こと」とは本来、はっきりとは言い表せないものなのだ。「名状しがたい」というやつだ。でもそれでは、会話が成立しない。

書く「こと」と読む「こと」を「もの」的である言葉が橋渡しするというのは、おもしろいことだと思う。これは、商取引にもどこか似ている。


取引は「こと」の蘇生術

「もの」が過剰で、「こと」が希薄な現代社会、などというと、陳腐かもしれない。「もの」が飽和していてあまり売れないから、「こと」としての価値、経験価値を売ろう、みたいな話をしばしば見かける。

お金というのは客観的で計算可能な数字であり、「もの」的である。数字自体はどう背伸びしても「こと」にはならないが、私たちは「もの」を払って「こと」(体験することやサービスを受けること)を得たりする。それはもしかすると、「もの」と「こと」を同一視していたり、交換できると勘違いしているからできることなのかもしれない。

そう考えると、お金というのは「こと」のフリーズドライであり、売買というのは「もの」となったそれに「勘違いという魔法の湯」をかけることで「こと」に戻す、蘇生術である。

りんごはそのままだとりんごであり、「もの」のままだ。食べるという「こと」によっておいしさが経験される。この経験に価値があると思うから、人はりんごを買う。けれど、買っただけで満足してしまって腐らせてしまうこともあるだろう。それは「こと」の喪失だ。そのとき私たちは「もの」を消費するのではなく、「もの」に消費されているのかもしれない。

言葉についての段落でも述べたが、「蘇生」は感性に依存する。「こと」を売るとは、蘇生術を売っているのだ。現代の市場において希少になっているものは、感性なのかもしれない。

「りんご」のような「もの」の売買はミイラの交換だけれど、「こと」の売買はその場で蘇生のプロセスを含むので、「もの」自体よりも価値が高く感じられるのだと思う。

私たちは「もの」にとらわれ、「こと」を忘れ、だから「こと」を買い求めているのかもしれない。

ただ座る「こと」の厚み

今朝、ぼんやりと川を眺めていた。
今までは景色を目で切り取って「美しい風景」だと感じていた。しかしそれは、「もの」としての景色の楽しみ方である。

今朝は、「こと」として味わうことを意識した。そうすると、美しい景色の前で「座る」という行為を、今まで軽んじていたことに気づかされた。「座る」って、結構すごい。その場に腰を下ろし、できごとに居合わせることが「座る」なのだなぁ。

色づいた葉が風に揺れている。その風に自分も吹かれているのを感じる。これが「こと」としての景色を見る行為なんだな、と思った。


右脳的な「こと」、左脳的な「もの」

ここまでお読みになった方は、「こと」アゲ、「もの」サゲな文章だと感じられたかもしれない。

だが、「こと」が必ずしも上だと言いたいわけではない。「こと」は右脳的で、「もの」は左脳的な認知のしかただと思う。これらは両輪だ。「ものごと」という言葉もある。「こと」も「もの」も、「ものごと」をどちら側から見るかという違いにすぎない。

なにか問題の渦中にあるときは、「もの」的な認知がそれを整理するのに役立つだろう。

ただ、「もの」と「こと」がバランスを欠いたとき、人は不自然な行動に走るように思う。過剰に管理された時間、美しい「もの」をかき集めることに時間を費やす休日、過剰に切り貼りされ着飾られた「自分」というイメージ。これらはおそらく、「もの」側に偏りすぎている結果だ。

「もの」的な見方をすること、つまり客体化することとは、対象から遠ざかることである。対象の裏面は「こと」である。だから同時に、「こと」からも遠ざかってしまう。「こと」から遠ざかることは、生気からも遠ざかることだ。

生活に退屈や停滞を感じるとき、「こと」的な認知を心がけてみるとよいのかもしれない。私はそんなことを考えた。これを読んだあなたは、どんなことを考えるだろうか?

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