見て見て欲求とキッズのランニングマン

小学生が駅のホームでランニングマンをしている。なんでだろ、少しモヤモヤしちゃう。

きっとダンスというものの本質にモヤモヤがあるのではないか?

ダンスの起源は、恐らく神を祭る際に酸欠状態を作り、集団幻覚、催眠などを起こすためのものだったのではいか?そのうち踊ることを先導するものが現れる、巫女ダンサーか。そうしてダンスは見られることを意識するようになっていく…ではないか?

ダンスは見られるためのものなのだ。楽しく体を動かせば良いじゃん、ドンッチンク!フィ~ル!体で感じろ!うん、それもわかる。が、そういう人は駅のホームで踊らないんだよ。子供であろうと「見て見て!欲求」が嫌だ。ひけらかす自己アピールは他者への過小評価を内包する。この神経にモヤモヤするのだ。

ただただ注目が欲しいだけなのに「楽しい事を紹介して何が悪いのぉ!ただ伝えたいだけなの」と踊る人たち。中森明菜のDESIREの振り付けを練習していた姉を思い出す。

今は「見て見て!欲求」を扇動する商売人も多い。「踊って欲(ほ)CM」だ。踊る阿保に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…阿波踊りマーケティングと呼びたい。

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