価格は買える権利で義務ではない?価格について思っている2つのこと

相田けいさんがお書きになった価格についての考察をされた記事(勝手に引用すいません!)があった。内容が非常に興味深い。Iここ数年価格について、思いめぐらすことがあったからだ。

発端はAKBの総選挙の投票権問題から始まる。

推しメンに投票をしたければ、CDを1枚買って1回投票する。投票は1人何回でもOK、つまり買ったCDの枚数が多ければ多いだけ投票が出来るシステムになっている。

ここにはいくつかのルールが投影されていて、それは①売上を上げたいし、②CDの販売枚数も上げたいという狙いがある。しかしCDは本来1枚あれば良い。だってどのCDからも同じ音が出ているんだもの。

このルールからCDの販売枚数を除外できないのだろうか。

除外してどうするかというと、CDの価格をファンが決めてしまえば良いのではないのか。売り上げ総選挙にしてしまうのだ。しかしそれがあまり現実的ではない。商品には概ね決まった価格があるからだ。

今1万円で売っているものを、100万円で買う事が一般的にできない。希望小売価格や参考価格があって、誰しもが同じような価格で平等に買える様に取り計らっている(が、法律的な決めはない)。希望小売価格をメーカーが提示することで、その価格から逸脱した高値で買わない様に注意喚起をしている。

商品はある程度の決まった金額で買う権利的なものが誰しもにある。「東京モンはいけ好かん、100倍価格や!」みたいなことは誰しも平等の価格から離れていて現代的ではないし、現実的ではない。しかし売る側はそうでも、買う側はもっと自由な選択ができないものか。

誰しもを対象にした売り手の価格として妥当でないものがあると、冒頭の相田さんはおっしゃる。うん、わかる。

一方、妥当でなくても高値で買っている人がいて、もしかすると、もっと高値でも買う人がいるかも知れない。そういう人達が居るなら、それはそれで買ってもらいたいよね。

しかし決まった価格以上の金額で買う文化がない。となると、販売するものを細々と増やすことになるのではないか。

例えば情報商材だとすると、メインの教材Aがあって、それは2000円。このメイン教材の制作過程を示したものBが2000円であって、販売開始その後内容Cが2000円であり、この本を書いた期間の著者のパーソナリティがわかるものがD2000円であって、サロンの会費が5000円/月…と。

アイドルの売上総選挙であれば、普段SNSで無料でやってしまっているが、もっと日常を細々売って行けば良い。推しメンの毎日の生活(生きている時間)は、そのままコンテンツになる。極端に言えば、朝起きた所から、寝ているところまで、知りたいのだ。そこに課金のチャンスがある。しかもタイムリーに課金がわかれば、ファンたちの激しいバトルが見られるかもだし。

最近、アーチストの岡崎体育がファンクラブ内で課金により差を付けることを発表し批判も多かったけど、その形は未来を向いている気がする。

江戸時代の芸術家 本阿弥光悦は作品を買う際に売り手が提案した値引きを断って購入した、というエピソードがある。あえて高値(初めの言い値)で買ったのだ。自分が価値を認めたらその金額を払う。そういうシステムはもっとあって良いのではないか。

どこでも買えるものでも、メーカーの企業努力って凄まじいものがあると思う。カプリコのおいしさに少し課金してあげたくても、課金したお金がメーカーに届くシステムが無いし、そもそも少しの課金すらできない。

有名メーカーはそんな課金が必要ないご商売かも知れないが、世に作品を発表しているクリエーター達で裕福じゃない人も多かろう。

noteはその点がすごく発展的でサポート制度がある。サポートをする方もいるだろうが、やっぱり文化としてはまだこれからの概念のような気がする。となると、課金の段階を増やす商品チャネルを提供するのがファンには良いのかも知れない。ファンでないけど情報が欲しい人には、情報だけを。ファンにはそれ以上を。

色々書いたが、言いたいことは2つ、

価格以上の金額で購入することが出来ても良いよね!

多く払った分はちゃんと販売元に届いて欲しいね!

ということだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?