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冬の木の話

子供のころ近所の公園に生えていた木々を、私はひと種類ひと種類見分けられていたように思う。ただそれをどんなふうな名前で読んでいたのかを覚えていない。
母は植物に詳しい人だったので、名前はきっと母に教えてもらったはずなのだが、いまとなってはそれが、図鑑に載っているただしい名前だったのかどうかは分からない。

かすかな記憶によれば、私はそれらを、生え方や葉の形というよりは木肌の感じで覚えていたのだったように思うのだが、いったいそんなことは可能なのだろうか。あるいは単に、空想の友達に名前をつけるようにしてかってにあの木その木と呼んでいただけなのかもしれない(お察しの通り、私には空想の友達はたくさんいた)。

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冬がやってきて葉が落ちると木肌があらわになって、いままで気づかなかったものに、ほんのすこしよく気がつく。
つるりとした木肌もかわいいし、ささくれたものも、切り株のさっくりとした断面とのコントラストも良い。小さな芽のにょきにょきと出ているものなどは、はっとするほど愛らしい。

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さきの年末、帰省にカメラを伴って、その公園を訪った。

カメラを持ってから世界のこまかなものが気になるようになってきて、私には親譲りのとおくまでよく見える目があるのにじっさいそんなによく見てはいなかったのだなあなどと思う。
よく、久しぶりに訪れた小学校やらを前に「こんなに狭かったのか」とひとりごちる、というような表現があるけれども、それが単に自己の体の大きさとの相対的な空間の捉え方の問題だと考えてしまっては、物事はさびしい。
多くのものに気がつけば気がつくだけ空間は広がるのだから、それはきっと子供のころはより多くに気がついていたということであって、いまはその視点をちょっと忘れてしまったのだというふうに認識すれば、空間は何度でもどれほどでも広がりうるはずなのだ。

(764字)

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