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“i” #11

僕の首元に冷たい刃が突きつけられる。
殺される。
それはずっと昔から覚悟していたことだ。
母の死、兄の死、それらを見た時。最後に『彼』の顔を見た時から。『彼』と対峙すると決めた時から。
ついに来たのかという気持ちだった。
ずっと前から覚悟していたからなのか、今になって拍子抜けしてしまうほどにあっさりとした気持ちになっていた。

けれども、その刃が僕を貫くことはなかった。
「以前の俺なら、このまま殺していただろう。でも、今の俺はそうしない」
『彼』はそう言って僕の首元からナイフを離す。
カラン。
『彼』は僕の目の前に先ほどのナイフを落とし、僕に背を向けて歩き去っていく。
ああ、僕は『彼』に縛られていたのだ。僕が勝手に作った過去の『彼』に。
もう『彼』は今の彼では無い。僕の追いかけた『彼』はいない。残酷な『彼』。何も躊躇わない『彼』。そんな『彼』はもうこの場にいない。僕が復讐しようとしていた『彼』は僕の心にしかなかった。
僕は目の前のナイフを見つめた。
少しだけ、ほんの少しだけ冷静になって、震える手でそのナイフをつかもうとする。
うまくつかめない。手は空をつかむ。
彼の姿は次第に小さくなっていく。


やっとのことで、僕は彼に近づき、
今出せるだけの力を込めて、刺した。

それからのことは、ぼんやりとしか覚えていない。
彼が振り返る。丸く見開いた目。そして、暗い路地裏でもわかるほどの真っ赤な血。
僕は確かに刺したのだ。逃げていた銀行強盗犯を。

何が起こったのか、すぐには理解できなかったが今ならわかる。
ちょうど路地に面した戸から、昨日起こった銀行強盗の犯人が飛び出してきたのだ。
犯人は、普段人気のない路地裏だったからか、警戒することもなく、しかし何かあったのか急いでいたらしく、何も気付かぬまま僕の目の前に飛び出してきたのだ。
そして、僕は勢いのまま犯人を刺した。
刺したところが悪かったらしく、犯人は首から血を溢れさせていた。
悪かったも何も、僕は殺すつもりで刺したから致命傷になってしまったのだが。
目を見開いて口をパクパクさせる犯人。
突然の出来事に座り込んでしまい何もできない僕。
そんな状況を冷静に、そして冷淡な目で見てから、彼は携帯電話を取り出し電話をかけた。
かけた場所は当たり前だが警察だった。
「…はい、昔の知り合いと話していたら突然人が襲ってきて。…必死で抵抗していたら犯人を刺してしまって。…あ、救急車もお願いします、一応」
通話が終わると、彼はにこやかに僕に言った。
「すぐに警察が来るって」と。それはどこか得体の知れない、悪魔のような微笑みだった。

彼の証言により、僕は正当防衛となった。
なんとも割り切れなかったが、彼が立板に水のごとく説明するので僕はそのまま流されてしまうしかなかった。

あれは偶然なのか、それとも裏があったのか。
考えてみても今となっては答えが出ることはない。
それよりも僕には、夢がある。
サッカーは結局途中で辞めてしまったけれど、スポーツに携わる人の健康を支えたいという夢だ。
これからの僕の人生に『彼』が関わることはないだろう。もちろん彼も。
でも、あれでよかったのだろうと思う。
僕は彼のいない人生を生きていく。
彼の怖さは過去にしまっておくのだ。

〈終〉

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