"i" #10

キイィィン。
コンクリートの壁に当たったナイフは、甲高い音を立てて刃先から3センチくらいのところで折れてしまった。
僕は『彼』と距離を空け、新たなナイフを取り出す。
(絶対にここで仕留める――!)
ナイフを右手につかみ、一気に『彼』との間合いを詰めた。
ナイフが風を切るのとは全く違う感触がした。
液体が僕の右腕を伝っていった。
『彼』が力の限り僕を後方に押したので、僕はよろけて尻もちをついてしまった。
『彼』を見ると、右の二の腕に深々とナイフが刺さっていた。痛そうな顔をしながらナイフの刺さったところを押さえている。ナイフを抜くとかなり出血するのがわかっているのだろうか、なるべくナイフを触らないようにしながら後ずさりしていた。
チャンスだ。
僕は最後の一本のナイフを、懐から手に取る。
これで、終わりだ。
ナイフを彼の首元に当てる。
『彼』の口がかすかに動く。
「君が…君が生きていてくれてよかった…」
「!?」
あまりにも突然の言葉だった。
殺した、僕の家族をバラバラにしておきながら、それでもなお僕が生きていてくれてよかったと、ある意味、殺人犯にあるまじきことを言ったのだ。
動揺。焦り。
ナイフを持つ手が止まる。動かない。
それが作戦だったのかどうかはわからないが、ナイフを持った手に鋭い痛みが走り、最後のナイフは宙を描き大きく後方に飛んでいった。
そして、みぞおち辺りに激しい痛みを感じてようやく気付いた。
『彼』は右の二の腕を刺されたんじゃない、刺されにいったんだと。
利き手でない右腕にナイフを刺して、ナイフを一本使えなくしたのだと。
薄れゆく意識の中で、そう思った。
あれだけの時間をかけたのに、僕は『彼』に負けたのだ。
僕はすべてを覚悟した。
背中が、路上の冷たいコンクリートに触れたのがわかった。

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