"i" #9
『彼』は驚くほど目を丸くして、こちらを見つめていた。『彼』の計算では、僕はまだ帰っていない予定だったのだろう。その驚きのせいか、兄に向けたナイフが止まる。
その瞬間、兄は力の限り、『彼』に向かって突進した。『彼』はよろけて、体制を崩す。
何かしなきゃと思い僕は兄をかばおうとする。しかし、兄に体当たりされた。僕は床に転び、痛みが走る。けれどもそれは、打撲のような痛みではない。むしろ、何かで切られたような鋭い痛み。
僕の右脚は、ふくらはぎから足首までが切られていた。
今までサッカーで使ってきた足。その足に今まで感じたことのない痛みが走る。
「早く逃げろ!」
多分、兄はそう言った。あまりの出来事に僕の記憶は定かではないが、きっとそう言った。そして、それは兄の最期の言葉となった。
ぐさり。
喉に一差し。
明らかな致命傷だった。
そして、『彼』は血に塗れながらも無表情でこちらを見た。
ああ、どこにも逃げ場はない…
右足を引きずって逃げるという考えはなかった。
兄と母の死に様。それを見ただけで、今日はもう頭がパンクしそうなんだ。
そうして、僕は気絶したのだと思う。
それでも、最後に見た『彼』の顔だけは絶対に忘れられなかった。
…次に僕が目を覚ましたのは、病院のベッドだった。
僕の身に、家族に起こったことが現実なのだと感じられて怖かったことを覚えている。
周りの看護師さんや医者に、母と兄のことを聞いた。返ってくるのは、悲しげな顔ばかりだった。
そうして、色々な人に聞いているうちに、父も死んだことを告げられた。
自殺だったらしい。
だが、本当にそうなのか疑わしいところだ。
『彼』の仕業ではないかと、僕は疑っている。
しかし、僕にはそれを調べる術もない。
悲しみが襲う。
なぜ、両親と兄は殺されなければならなかったのか。そして、なぜ、僕は生き残ったのか。
問いかけても、虚しい答えしか帰ってこない。
けれども、生きる意味は失っていない。
父の死の真相、母と兄を殺した動機、なぜ僕は殺さなかったのか。『彼』には聞きたいことがたくさんある。
それまで、僕も生きなきゃいけないし、『彼』も生きてていてくれなきゃいけない。
生きて、聞いて、そして、復讐するんだ。
『彼』より強くなって。
右脚は良くなったものの、以前ほど動かすことは出来なくなった。サッカーは諦めるしかなかった。
けれども、他のことは諦めないと決めたのだ。
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